第189話 腹の虫が鳴く

 アルジエナ城で働く人々、傭兵や給仕人。

 街角で遊ぶ子供たち、優しい眼をして見守る親であろう大人。

 片隅で他愛もない日常会話をする町の住人。


 ルピナが好んで――それでいて自分の暮らしとは全く違っていて羨望のような、あるいは寂しくもあるような感情を伴ってそれらを眺めていた、『町の様子』は次第に変わり始めていく。


 城で働く人々は日が経つにつれ忙しなく働き、優雅な佇まいを以て自分たちをもてなしてくれた人々にとって代わって明らかに『武』を生業にする人々が多く行き来するようになった。

 城の重要な場所へは彼らは立ち入ることが出来ないものの、彼女の気に入っていた冬に咲く珍しい花の花壇がある広場は撤去され、簡易的な演習場へと作り変えられた。


「……イプリス、町の方も見て回りましょう」

「へい」


 愛らしいといえば愛らしく、細工の整っていないといえばそうともいえる二足歩行の狸を連れて町へと歩いていく。

 城門を出ようというとき、前から歩いてくる鎧姿の男は血なまぐさい匂いのする剣を携えていて、不躾にも来たる戦いの予感が鼻腔をついてすれ違いざま思わずルピナは息を止めた。


 町の喧騒は変わった。

 この町に着いた時に見られた食材を買い求める客たちは、今では己の家の備蓄のためと我先に商品を手に取り、いつしか口論に変わる――。

 穏やかな目をしていた大人たちはどこへ行ってしまったのか、目の下にクマを作って眉間に皺をよせ下を向いて歩く。


 海の外――争いごとが始まる前に国外に出ようとした船団は季節外れの『怪鳥』の群れに襲来され船ごと喰われたという。漂着した友人の衣類を見つけて泣いているという男と、彼を慰めようとして声を掛けた別の男に『君に何が分かるんだ』と声を荒げる彼を、ルピナは同情と憤りの眼差しで見つめた。


「思いつめねえほうがいいでやんす……人が一人も誰も死なねえ世の中なんてぇのは作れやしやせん」


「……分かってる。でも」


「なーんも言わねえでくんなまし。ルピナがあっしの出べその下っ腹くれえ小せえ時からの付き合いだ、おめえさんの気持ちもわかりやす。しかし彼らの人生は彼らが作ってくんでさぁ。ルピナはその土台を――世の中を守ることが使命でやんす……あいやすまねえ。そんな因果は“彼ら”が断ち切ってくれたんでやんした」


 トキハルの影響を受けたのか、イプリスという狸はいつの間にか腹巻を巻いてそこに仕込み杖を携えていた。ぽんぽんと腹を叩いてみせると小ぶりな杖を抜刀してシュシュ、と二振り虚空を切ってまた刃を杖に戻す。


「……あんまり街中で振り回すものじゃないわ」


 ここ何日か宿で、空き地でイプリスが仕込み杖の抜刀術を練習している風景をルピナは腰かけて眺めていた。

 小さなころからイプリスは彼女の傍にいた。それこそ肉親よりも――。

 イプリスは読み聞かせをしてくれることもあった。食事を作ってくれたことも、傷んだ衣類を裁縫してくれる事やぬいぐるみや玩具を作ってくれることも。

 鬼ごっこや遊びに付き合ってくれたことも数えきれない。


 そのどれもが上達することはなかった。

 不器用だからと、片付けられる問題ではないことをルピナは理解している。

 霊獣、召喚獣は成長することがないのだろうという事。


 きっと必死に振り回す剣術は上達することはなく、振りかざした棒の重みに耐えきれず逆に倒れ込んでしまってなお、すぐ立ち上がり素振りを始めるイプリスにそれを告げることは出来なかった。



「おっと、こいつは失敬――」

「わかってる」

「へ?」

「本当は、みんなが求めてる盟約の召喚術師は私じゃない、なんて強がってみても。私がやるしかないってこと。運命なんて簡単に断ち切れるものじゃないなんて分かってる」

「……ルピナも成長したもんでやんす」

「ふふ。それに、簡単じゃないとしても世界が救われてしまえばそんな運命ともお別れできるわ。そして、別に一人でやり遂げなきゃいけないってわけじゃないもの」


 元気に走り回って遊ぶ子供たちは変わらない。

 本当ならルピナもああして街中で同じくらいの友人と無邪気に笑っていてもおかしくないというのに――そう考えるとイプリスは腰に差した杖を握る肉球に力がこもる。


「はぁ……ほんとにもう、あの人――トキは一体何をしているのかしら……?」


 その成長ぶりに感嘆として彼女の顔を見上げていたイプリスが大きくため息をつきながら彼女が見ている方へと視線を向けると見えたのは、どういう経緯かトキハルが女性を肩に担いでとんでもない速度で走り抜け、それを追っている様子の冒険者らしい風体の男たちがいた。


「人攫い……でやんすかね?」

「聖王の側で戦うっていうのに……! 地獄に落ちるわよ、アイツ!」

「行ってみやすか」

「うん!」


 召喚術師と霊獣、頷きあって追いかけたがあまり体力に自信がないルピナたちがたどり着いた時にはどういう訳かトキハルは刀を抜いていて、相対する老人に尋常ではない殺気をぶつけていた。


「――殺す気っ!?」

「あいやルピナ、あのご老人――彼もまた凄まじい――」


 彼女たちが分かったのはただ、それは何らかの行き違いによる諍いで、そしてどうやら今回はトキハルの勝利に終わったらしく。それでいて不服そうな顔をして刀を収める勝者は老人と何かを話していたということだけ。

 観衆は歓声をあげたり、まばらに拍手をする者――大半はどうも金員の受け渡しをして喜んだり肩を落とす者が見受けられ、やがてその場から立ち去ってゆく。


「ちょっと、トキ! アナタ何やってるわけ!? わ! お酒臭い」


 駆け寄って声を掛けると、酒の匂いがする男はちらりとルピナの顔を見るなりはっとしたような表情を垣間見せ、すぐに寂しそうな眼をして彼女から目をそらして歩き出した。


「うる……ちょいと、技を拝借しようかと思ってな」

「技を? もう十分強いじゃない。これ以上強くなったらいよいよ人としておかしいわ! それに人攫いなんて――」


 大股で歩き出したトキハルに追随する形で、半ば小走りのような早歩きをしながら話す。


「十分じゃねえよ。十分だなんて思って慢心して驕ってたもんだから――このザマだ」


 目端に移った露店にふらりと吸い寄せられると並んでいた酒瓶を一つ手に取り、袖の下から大ぶりの魔石を取り出して放り投げる。慌てて受け取った売り子は目を見開いて驚き、お釣りお釣りと騒いでいる声を聞こえていないかのようにまたトキハルは瓶を傾けながら歩き出す。


「このざま?」

「……一人きりになっちまった、ってこった」


 口元を乱暴に手で拭いながら怖い顔になった彼を見て町行く人はぎょっとして道を譲った。


「…………ごめんなさい」

「なにも謝る事ぁねえ――」


 謝罪を述べる神妙そうな顔をしたルピナの様子とは裏腹に、彼女の腹から聞こえてきた空腹を知らせる音。



――父上、食べたいものはありますか?



「あ、ごめんなさい。今日はまだ何も食べてなくて」


 一瞬、頭によぎった声を今は悲観することはなく、未来につなげるべく微笑へと変えた。


「なんか食いてえもんはあるか。飯でも奢ってやらあ」


 傍らを歩くルピナが恥ずかしそうにしながらも小さな歩幅で一生懸命、時折走りながら歩いていることに気付くと、悟られないようトキハルはやや歩く速度を緩めた。


「……こんな事にも気付けねえなんざ、情けねえ」

「え? どうかした?」

「なんでもねえ」


 いつかギワコウで見かけいい匂いにつられたものだが結局、食べ損ねてしまった甘辛く季節の野菜を煮込んだ料理が食べたいとルピナが言ったものだから、トキハルは思い当たる店――つい先ほどまで騒ぎを起こしていた店へと戻る。

 扉を開けると体格の良い冒険者や傭兵崩れが、ここ最近しょっちゅう通っていたトキハルと、幼気なルピナ、変な狸へと視線を寄こした。


「いらっしゃ――か、隠し子!?」


 勝手に衝撃を受けて磨いていた皿を取り落とした店主テリプをよそに、先ほどの剣術は見事だった、見ものだったと声を掛けてくる者達をうるせえと言って軽くあしらうと、カウンターに並んで腰かけ酒と料理を注文した。


「そんな……アタシに内緒で……」

「うるせえ、そんなんじゃねえ」

「そうじゃないなら――まさかお兄さん……ロリ――」

「――うるせえッ! 早く酒を寄こせ」


 厠へ行くと言ってトキハルが席を立った隙にルピナが少し勘違いの甚だしい店主テリプにこれこれこういったわけで、と説明するまで彼女は気もそぞろで、落とした皿は七枚、割ったグラスは十一個だった。


 しかしアルジエナ流にアレンジされた島国の料理にルピナは大いに満足し、不安そうな町の人達の様子と同じくらい、勝利を信じて酒を飲み笑い合っている冒険者や傭兵たちの姿を深く心に刻んだ。

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