第54話 お別れ

 石井道夫の消滅から1カ月が過ぎた。この日は心地よい風が吹き、過ごしやすい陽気が町全体を包んでいた。爽やかな朝日が猫神社にも降り注ぎ、小鳥のさえずりが森一帯にこだまする。


「皆、これまで長い間ご苦労であった。五大猫神使の力が私の元に戻りつつある。次にまた日が昇るころ、おぬしらは人間の姿に戻っているだろう」


 猫戦士たちは皆、本殿座敷の真ん中に座って話すにゃんこ様を囲っていた。こうして顔をそろえるのは随分久しぶりだった。


 というのも、この1カ月間は皆それぞれ別行動だったからだ。空雄は流太と麗羅を連れて町の観光に出掛けたり、家族で温泉に行ったり、猫戦士だった頃には想像もつかないほど平穏で満ち足りた日々を過ごした。麗羅は久々に見る町の変容に驚き、とりわけ観光に関しては熱心だった。流太と麗羅は猫屋敷で過ごすことがほとんどだったが、2人とは何度も家でご飯をともにし、一日中ゲーム対戦をして盛り上がったこともあった。


 鈴音や条作たちは用事があると言ってしばらく猫屋敷を空けた。流太でさえ、彼らの行動に関しては把握していなかった。だから、1カ月たつころになって鈴音たちがちゃんと戻って来たのを見て安心した。


「私と会うのはこれが最後だ」


 にゃんこ様は左端に座っていた鈴音の両手を包み込んでほほ笑み掛けた。


「どんな時も、仲間を思い助け合おうと努めてきた。おぬしに救われた者は大勢いる」


 鈴音はほほ笑み返した。けれど、その目には涙がにじんでいた。にゃんこ様は手を伸ばして鈴音の目じりを拭った。今まで、にゃんこ様がこんなふうに猫戦士に触れることはおろか、誰かの涙を拭うなんてことはなかった。


 にゃんこ様は条作の前に歩み寄り、優しく背中に手を回した。


「あなたらしからぬお別れの仕方ですね」


「お別れは嫌いじゃ。長い間連れ添ったおぬしらともなれば、なおさら。だから最後くらいこうさせてくれ。条作、それにしてもおぬしは、誰よりも猫になれて幸せそうだった」


 ははっ、と楽しそうに条作は笑い、周りからも笑いが漏れた。


「俺は今でも猫のままがいいって思ってますよ。でも、そうはしてくれないんでしょ?」


「分かっているのなら聞くでない」


 条作はほんの少し笑うと自分からにゃんこ様を抱き締めた。静かに体を離すと頰をかいた。「本当に、最後なんですね」


「条作」


 にゃんこ様は静かに言った。


「おぬしはここに来て、少しでも幸せだと感じることはあったか」


「ありましたよ」


 迷いなく放たれた言葉に、にゃんこ様は穏やかな顔をした。満足とも、不満ともとれない曖昧な表情だった。にゃんこ様は姿勢正しく座っている悟郎の前に座った。


「おぬしは最後まで、その顔を崩さんかったな」


 にゃんこ様は銅像のように身動き一つしない悟郎の体をグイッと引き寄せた。感情のこもらなかった悟郎の目が大きく開かれた。


「おぬしは力がある。猫戦士に選ばれわが神社に来た時から。でも、ただ強いだけじゃない。向上心があり、みんなを引っ張っていく心の強さもあった」


 体が離れた時、悟郎はものすごく悲しそうな顔をした。


「流太。おぬしはよくここまでついてきてくれた」


 にゃんこ様はあぐらをかいて座る流太に言った。


「礼なら結構。俺は最初から最後まであんたに従う他なかった。それはみんなも同じだ。なんなら猫になんてなりた

くなかった。やっと人間に戻してもらえる、その解放感の方が勝るね。これまで俺が学んだことは、あんたという神様は随分とおせっかいだということさ」


 別れの場面でつらつらと遠慮ないことを述べる流太は、もはやさすがだった。


「でも、あんたがどれほど猫たちを大切に思っているのかは分かった。石男はいなくなったし、この町から脅威は去

った。俺としてももう心残りはない」


 にゃんこ様はうすく笑んで、流太に寄り添う麗羅を見た。にゃんこ様と麗羅はなぜか言葉を交わさなかった。ただ互いの目を見つめ、静かにうなずき合う。たったそれだけだった。にゃんこ様は最後に空雄の前にやってきた。最後にくるのが自分だと思っていただけに、いざ向き合うと緊張した。


「空雄。おぬしは若いのによく頑張った」


「それを言うなら、流太さんたちだって」


「いいや、おぬしが一番若い。とんでもなくな。おかげで救われた。ありがとう」  


 にゃんこ様は空雄の額に口づけした。空雄は一瞬何も考えられなくなった。どこか頭の中がぼんやりとして、周りの時間が止まったみたいだった。にゃんこ様は立ち上がると、再びみんなを見た。


「さぁ、行きなさい」


 小さいけれど、りんとした声。


 にゃんこ様の視線は真っすぐ石段の先に続いていた。他の猫戦士たちが立ち上がり外へ出ていく中、突っ立ていた空雄の背中を流太が押した。


「行こう」


 本殿から一歩先に出た時、妙に体がすっと軽くなった。ハッとして振り返ると、さっきまで部屋にいたはずのにゃんこ様が消えていた。最初から、何もなかったように。


「流太さん。にゃんこ様は?」


「前を向け」


 流太は言った。


「にゃんこ様は消えない。ずっとここにいるさ」


 空雄は止めていた足を動かし、流太の隣を歩きながら猫屋敷に戻った。廊下を歩いていると、荷物を整理する鈴音や条作の姿が見えた。そうだ、明日の朝には完全に人間に戻れる。早く自分も部屋の掃除をして荷物をまとめなくては。空雄は借りていた部屋の掃除に取り掛かった。


「随分きれいになったな」


 荷物を整理し終えたところで流太がのぞきにきた。


「流太さんはもう、部屋の片付け終わったんですか?」


「まだだ」


「手伝いますよ」


「ほんと? じゃあ、ふすまの中にある古本をひもでしばってくれる?」


 ふすまを開けるとひどい埃でせき込んだ。


「流太さん、これ、いったいどれだけ掃除してないんですか!」


 わるびれもしない様子で流太は笑った。中にはいつの年代かも分からない古本や巻物がどっさり入っていた。どれも博物館に保管されていそうなものばかりだ。


「こんな難しそうな本、読んでたんですね。意外」


「意外ってなんだ」


「もしかして、猫戦士になる前は学者だったとか?」


「ただ本を読むのが好きなだけだ」


 言いつつ流太もせき込む。


 ふすまの中にあった本は200冊を超えた。中には今時の雑誌や漫画本もあったが、大半は歴史ものの難しそうな書物ばかり。本は全て、神社の下にある古紙回収所に出した。重たい本を両手にひっ提げての往復はさすがにこたえた。全てを運び終わるころには全身がバキバキで、汗でビッショリになっていた。広々となった部屋の真ん中で大の字になっていると、急に生きている心地がしてきた。空雄はふとあることを思いついてスマホを出した。


「写真、一緒に撮りませんか?」


「おーい、空雄が写真撮るってさ」


 ご丁寧に鈴音、条作、悟郎、麗羅を呼んできてくれた。空雄たちは流太の部屋で写真を撮った。


「ちゃんと撮れてる?」


 条作が聞いた。


「はい! バッチリです」


 撮影が終わると、またみんな準備に戻っていった。写真を見返してみると、麗羅以外みんな猫耳にしっぽが生えていて、猫戦士と言わなければ、どこかのリアルな仮装パーティーみたいだ。空雄は写真フォルダを閉じ、次に電話をかけた。


「もしもし? 母さん。約束通り、明日の朝迎えに来れる?」


「もちろん。明日の朝、神社まで車で迎えに行く。小春ももうこっちに戻ってきてるから一緒に向かうね。何時がいい?」


「10時ころ」


「分かった。1人で待っていられる?」


「うん、大丈夫」


「そう、よかった。これで本当に終わりなのね」


「うん」


「それじゃあ、また明日ね」


「ありがとう、またね」


 空雄は電話を切って笑みをこぼした。


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