第49話 決別
宮司がいなくなった神社は徐々に荒れ始め、森にのまれていく。にゃんこ様は時々麓に下りてみたが、道夫が戻ってくる気配はなかった。月日は過ぎ、雪が降り始める季節になった。
1人で過ごす日々は慣れていた。だから道夫が来なくなっても、にゃんこ様はいつも通り、そこにいた。
でも、いつも通りではいられない日があった。石段を上がってくる年老いた女と男が手を取り合い歩いてきた時だ。初めて見る参拝者だと思っていると、2人は本殿で参拝し社務所に立ち寄った。一体誰なのかと思っていると、道夫の荷物を片付け始めた。
”何をしている。それは道夫の荷物だ。勝手に触るな”
にゃんこ様は物陰から2人の様子を見て手を伸ばした。そこで、聞いたのだ。
「道夫、こんなに立派な神社を再建して、立派でしたよ」
まるでそこに道夫がいるみたいに、何もいない場所を見つめ語り掛ける女。目にはうっすら涙がたまり、そばにい
た男も涙ぐんだ。2人が言う道夫とは、あの道夫のことだろうか。にゃんこ様はそう考えてから、2人の横顔が道夫と似た形をしていたので全て理解した。
石井道夫は死んだ。両親を残し、にゃんこ様に顔も見せず。
唐突に突き付けられた現実に、にゃんこ様は拳を握った。2人の言葉には怒りすら湧いた。親より先に死んで、二度と神社に来なかった臆病者が、立派? これまでともに過ごしてきた思い出が頭によぎる。なぜ、どうして、こんな終わり方になってしまったのか。結局、道夫が言った”俺の愛”という言葉は分からないままだった。
全ては終わった。彼はもう、神社に来ない。分かっているのに、まだ未練がましく石段を見てしまう。ひょっとしたら、またいつものように笑って戻ってきてくれるのではないかと思うからだ。道夫はいないのに、彼が造ったものだけは残り続ける。雑草を刈り整えた境内、木材を組み立て朱色に塗装した本殿、建て替えた丈夫な鳥居、石段……
道夫が死んだと知ってから数年がたち、にゃんこ様は眠るように森の中で息をひそめていた。目を閉じ、耳を澄ませば無になって心の雑音を気にしなくてもよくなる。そうやって過ごすうち、にゃんこ様は道夫のことを忘れた。人間にはできないことが、にゃんこ様にはできた。例えばそう、思い出という記憶の一部を閉じこめておくことが。でも、ふとした時に解き放たれることがある。忘れていた記憶が目の前に現れた時だ。
「道夫」
二度と口にするとは思っていなかった名前が口から漏れた。
青空が広がる夏の日中、にゃんこ様は石段を上がってくる彼の姿を見た。数年前と変わらない姿で、穏やかな笑み
を浮かべ手を振っていた。閉じこめていた思い出が、記憶が、頭の中で爆発するみたいにあふれだし、にゃんこ様は一瞬にしてあの頃に戻っていた。
「道夫なのか」
石段を下り、にゃんこ様は手を伸ばした。全てはうそだったのかもしれない。神社に来た両親は道夫が死んだとは
っきり言ったわけではなかった。何か事情があって、この町を離れざるを得なかったとか。
駆け寄ろうとしたにゃんこ様の頰を何かが切り裂いた。にゃんこ様は何が起こったのか理解できず、自分の頰に黒い爪跡ができていることに気付いた。人間はこの体に触れることができても、傷つけることはできない。なのに、この自分を傷つけることができたということは……
にゃんこ様は石段の上に崩れ落ち、頰に手を当てたまま見上げた。道夫の両手からは、人間とは思えない黒い爪が生えており、そこだけが異質な雰囲気を放っていた。傷口から力が抜き取られていく。力が入らない。
「私たちはすれ違った。だが、どうやったら愛を伝えられるのか、やっと分かったんだ」
道夫は屈託のない笑みを浮かべて言った。
「あなたを殺すことだ」
瞬間、にゃんこ様は確信した。彼はすでに死んでいる。しかし、今目に見えている存在は人間ならざる者、邪として現れた存在なのだと。
「手に入らないのなら、誰かのものになるくらいなら、最後、その目に私を焼き付けて死んでくれ」
にゃんこ様は地面を踏みしめ立ち上がった。
「おぬしごときが、この私を葬るなど戯言をぬかすか。たかだか人間ふぜいの亡霊が、殺して愛を奪えるなどと思う
か。今のおぬしに愛など与えられない。はっきり言おう、道夫。おぬしは死んでいる。この世に存在してはならない邪の存在として、私の前に現れた」
笑顔がすっと引いて、道夫の目にかすかな拒絶が浮かんだ。
初めて会った子どもの道夫、目を輝かせ、汗を流し、神社再建を続けた大人の道夫。今の彼を見てもなお、日常のささやかな出来事が思い浮かぶ。道夫がどこで死に、なぜ死んだのか、にゃんこ様は分からない。だが、今の道夫は、自分の死にすら気付いていない。忘れている。
”また会える?”
”おぬしが望めばな”
麓で交わした初めての約束。来る日も来る日も、道夫は会いにやって来てくれた。迷わないよう手を引き、前を歩
いたあの頃。命短い人間とともに過ごせば、別れは避けて通れないと分かっていた。一度手にしたぬくもりを手離すのがつらいことも、分かっていた。それでもにゃんこ様は望んだ。道夫と会うことを。彼と過ごすことが楽しく、長い時の中で光を見せてくれたからだ。でも、道夫は違った。月日を重ねるごとに、埋められない溝に嘆き苦しみ続けた。
”いつまでも、あなたといたい”
間違いだったというのか。森の中で見掛けた道夫に声を掛けたこと。また、会いたいと思った気持ち、人間と仲良
くなったこと――その全ては、こんな未来のためにあったというのか。次々と記憶の棚から思い出がこぼれ落ちていく。
ここまで迷わせた。にゃんこ様は小さく無邪気だった道夫の笑顔を今に重ね、自分を責めた。だが、時を巻いて戻
すすべはない。この問題に対する責任を全うするために、道夫を滅ぼさなくてはいけない。
「道夫」
にゃんこ様はその名を呼んだ。
「死ぬのはおぬしだ」
2人は同時に手を振りかぶった。にゃんこ様の拳はまばゆい白い光を放ち、黒い爪を迎え撃った。森中に強烈な風が吹き、ぶつかり合うたびに破壊的な衝撃が広がった。にゃんこ様は戦う中で、徐々に力が弱まっていくのを感じていた。さっき道夫に切りつけられた頰の傷から、力が抜け落ちている。体に傷が増えるごとに、その感覚は一層強くなっていった。
体にある変化が起こった。力の減少とともに、成人した女性の姿が少女の姿に変わっていったのだ。拳の威力も落
ち、にゃんこ様は吹き飛ばされた衝撃で社務所を突き破っていた。一生懸命道夫が設計図を作り、建築した社務所。
かつての光景が頭をかすめた時、容赦ない追撃が土埃を切り裂き襲い掛かった。
もう、力が――
にゃんこ様の前に、突然謎の光球が割って入った。白に黒、灰、茶、赤の光。それらは猫の形となり道夫の動きを
止めた。
にゃんこ様でさえ予期していなかった五つの光は、一段と明るくなって境内を照らした。今もてる力を全て使い、勝てる最善策を考えなくてはいけない。にゃんこ様は足を引きずりながら前に出て、指で宙に文字を書いた。そこから水色の光が波紋上に広がっていき、道夫は石段の先にある鳥居の前まで突き飛ばされていた。もはや、今の体では道夫にとどめを刺せない。これが、今考えうる最善の道。にゃんこ様は傷だらけの体で石段を下りていき、鳥居の前で足を止めた。
境内には足一歩踏み入ることができない強力な結界が張られていた。結界一枚を隔て、2人は見つめ合った。にゃんこ様自身ですら外に出ることはできない、強靭な壁。道夫は結界に手をついて、にゃんこ様の名前を叫んだ。にゃんこ様は最後に道夫へ目を向けると、すっと視線を外し、背を向け、石段を上った。
そうして振り返ることはなかった。
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