第50話 友の石段

 セピア色の世界に一筋の光が差した。


 素足で宙を歩き現れた猫善義王。その姿は少女ではなく、すらりと背の高い大人の女性だった。彼女は草地に足を下ろすと周囲を見渡した。血を流し倒れる猫戦士、胸に穴を開けた石井道夫。長いこと見ていなかった外の世界は殺伐としていて、血のにおいがした。


 サラサラ砂がこぼれる音がした。道夫の体が、足先から砂となり消えつつあった。にゃんこ様は彼のそばで膝を折り、しばらく目を覚まさない彼の顔をのぞいていた。


 道夫の意識は今、暗いトンネルの中をさまよっていた。どこを歩いても先に光はなく、自分が歩いている所さえ分からない。ずっと、こんなふうに光のない世界を歩いていた気がする。背中を丸め、膝を抱えていると遠くから声がした。


”道夫”


 ぼやけた記憶の中でほほ笑み掛ける1人の女性。何度も、何度も、誰よりも多くその名前を呼んでくれた。自分にとって特別で、大切な人。顔を上げると、1匹のモンシロチョウがパタパタ横切っていき、一輪だけ咲いたタンポポの上に止まった。どこかで見たことがある。タンポポに手を伸ばすと、モンシロチョウは遠くに飛んでいった。


”この花が枯れる前に、必ずまた来るよ”


 道夫はプツンとタンポポを摘み取った。自然と口元が緩み、手を引いて前を歩いてくれたにゃんこ様のことを思い出した。だが、記憶の中のにゃんこ様は背中を向けてどこかへいなくなった。同時にタンポポは手の中で砂となり消えた。


 記憶がとめどなくあふれだす。見ないことにした記憶が。否応もなく頭の中に流れ込んでくる。そうだ、自分は自ら死を選んだ。5匹の死を嘆き、にゃんこ様とともに生きる喜びよりも、悲しみを憂い、永遠がかなわないことに絶望し。ならばもう、死んでしまおうと。でも、全ては間違っていた。目の前にある幸せに満足せず、多くを求めた自分は人でなしとなり、狂気となり、愛すべき人を殺そうとした。


”それ以上、求めてはいけないよ、道夫。おぬしは人間なのだから”


 にゃんこ様の言葉がギュッと心をしめつける。あの時、あの瞬間、にゃんこ様の忠告を素直に聞いていれば、何の後悔もなく死ねただろうか。気付いた時にはもう、何もかも自分の手で壊した後。溝を広げていたのは他でもない、自分自身だった。


 道夫は頭を抱え泣き叫んだ。声は反響することなく暗闇に溶けていく。もう、そばにあの人はいない。これが自分の最後だ。誰にも看取られずに孤独に消滅していく。


 そうだ。当たり前じゃないか。これは罰なのだ。それ以上を求め、大切な人を傷つけ、多くの命を殺した。こんな人間が最後を誰かに看取ってもらえるはずがない。


”道夫”


 目を開けると、きれいな星空が広がっていた。もう暗闇ではない。月の光に照らされて、穏やかな目で見下ろすにゃんこ様の顔があった。石段をトボトボ上って行った小さな背中を最後に見て以降、顔を合わせるのは初めてだった。にゃんこ様は美しい。最初に会った時から今まで。でも、その頰には自分がつけた爪の痕が残っていた。


 道夫は手を伸ばそうとして引っ込めた。彼女に触れるには、あまりにも醜い手をしていた。


 道夫は嗚咽を漏らし、むせび泣いた。体が砂になっていくほどに、にゃんこ様の傷はふさがり、姿はどんどん大人びていく。


 にゃんこ様は道夫を抱えると歩きだし、神社に続く鳥居の前までやってきた。にゃんこ様はただただ言葉を発せない消えかけの道夫を抱え、一段一段石段を上っていった。


 手をつなぎ、森の中を歩いた。古びた神社の中で眠りについた。荒れ放題の境内を駆け回った。お供えしたお団子を2人で食べた。石段を上がるごとに、思い出がよみがえる。道のない森の中に大きな石を敷き詰めて石段を造った時だって、ついこの間のようだ。毎日汗をかいて必死に重い石を積み上げ、道夫がせっせと造り上げた。


「この石段に名前をつけよう」


 石段の完成が間近に迫ったある日、道夫は汗を拭いながら言った。


「名前?」


「そう。友の石段、というのはどうかな」


「ありきたりじゃ」


 ははっと道夫は笑って鼻をこすった。


「確かに奇抜さはない。だけど、そういうものこそ尊い」


「どういう意味を込めた」


 道夫は笑ったまま数秒にゃんこ様を見つめた。


「とある猫と人間の友情。真っすぐ延びる石段を上がれば、迷わずに神社まで行ける。私にとって、大事な友との間にある道さ。本当の意味なんて、私たちが知ってさえいればいい。捉え方は人それぞれだ。ここをたまたま通りかかった友達2人が、いつか思い出話を咲かせる時に石段の話をするかもしれない。自分や友達のことを名に重ねたりして。そんな時、名前が難しく分かりづらいものだったらどう思う。印象には残るかもしれないが、記憶には残らない」


「印象に残らなくては記憶にも残らん」


 その時はそう言ったが、不思議な話、確かに道夫の言う通りだった。こんなささいな会話さえも覚えていたなんて自分でも驚いた。


 にゃんこ様は昔のことを思い出しながら最後の一段を上った。境内にある猫の石像は一部がすでに溶け始め、長い間眠りに就いていた猫たちが目を覚ましていた。にゃんこ様はゆっくり歩き、本殿の縁側に座ると道夫の頭を膝に乗せた。


「私は永遠に取り返しのつかないことをした」


 道夫は声をくぐもらせて言った。忘れていた記憶も、忘れたかった記憶も、優しい思い出も、一片の損失なく彼は思い出していた。


「私はあなたを欺き、外道になった。こんなことをしてしまった私はもう、あなたのそばにいることも、人間に戻ることもできない。もし私が、日常のささやかな日々に感謝し、死を受け入れられていたのなら……」


「後悔した時、誰しもたとえ話をしたくなるものじゃ。でも、何をしたってたとえは起こらない。しょせん空想の世界だ。だが、私がたとえ話をするなら、おぬしを森へ導かなければ、会うと約束しなければ、おぬしを外道に迷わせることはなかったのかもしれない。私とおぬしは確かにちがう。だが、同じものもある。心だよ」


 にゃんこ様は砂に消えていく道夫を見て言った。


「邪の存在として私の前に現れてから、おぬしは一つの人格を形成した。もはや体も心も人間ではない。でも道夫、おぬしは結局……ただの人だ」


「人」


 自分が人間であることを確かめるように、道夫は美しい響きの言葉を口にした。目にかすかな希望を浮かべ、そのまま彼女の頰に指を伸ばしていく。今度は傷つけないように、そっと。


 指は触れる前に砂となった。もう二度と触れられないと分かった瞬間、道夫は首を振り、肩をわなわなと震わせた。にゃんこ様は指のなくなった道夫の手を取り、静かに自分の指を折った。


「最後まで優しかった。あなたは。こんな私にも」


 にゃんこ様は穏やかな目で肩を震わす道夫を見た。ずっと苦しそうだった道夫の顔が穏やかになっていく。彼はもう、胸の辺りまで砂になっていた。急速に体が溶けていく。


「道夫」


 にゃんこ様は崩れ落ちていく道夫の体を両腕いっぱいに抱き締めた。腕の中で消えかかった道夫の顔が見えた。最後にこう口を動かしたのを見た。


”ありがとう”


 最後の一粒になるまでにゃんこ様は笑顔だった。目じりからすーっと涙がこぼれる。砂の上でうずくまり、にゃんこ様は1人となった。


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