第44話 とある猫戦士の昔話

 これ以上、仲間が死なない? 空雄は流太たちの顔を思い浮かべた。こんな苦しみを、もう二度と味合わせなくていいのか。自分がここで石になると望めば。そうすれば、彼らはもう――


 冷めきった空雄の体を道夫は優しく包み込んだ。生きた人間のように、温かい体だった。心臓の鼓動が聞こえる。それほどまでに、2人は今近い距離にいた。空雄は怒りより悲しみが先立ち、何も考えられなくなっていた。戦う意思も、ズタズタに切り裂かれた心の痛みまでも薄まっていく。


 空雄は拳を解き、その手をゆっくり自分の首輪に伸ばした。道夫は笑みを濃くし、首輪が外れる時を待った。


 するりと首輪を外し、空雄の首は無防備になった。首輪を地面に落とし、両手をだらりと垂らす。一本の黒い爪が、ひたりと首筋に触れる。徐々に首から広がっていく冷たさ。


 思考回路が寸断されそうになった時、空雄はものすごい力で黒い爪をつかんでいた。自分でも分からない。突然心の奥底で怒りが顔を出した。


「……そうやって、お前は麗羅さんにも言ったのか」


 空雄ははっきり意思のある目を向けた。道夫は黙り込み、不敵な笑みを浮かべた。流太は口では語らなかった。けど、彼女の話をするときは、いつだって幸せそうな顔をしていた。目を見れば分かる。あんな顔、好きな人の話をする時にしか見せない。人を幸せな顔にする。きっと、麗羅という女性は優しい人だったんだ。


「信じる方がばかなのだ」


 道夫はため息をついた。


「君もあのばかな女と同じように落ちてくれると踏んでいたが、そうか……君は私に殺される方を選んだというわけ

か」


「本当にこれが、約束だなんて思っているのか」


 空雄は強い口調で言った。


「仲間の死を引き合いにして恐怖をあおる。逃げ道をなくし、二つしか道がないように見せる。お前がしたことは脅迫まがいの嘘八百だ。俺は石にならない、殺されない。自分の人生を、お前に選ばせたりしない!」 


 拳から白い光があふれだす。道夫の黒い爪が鈍く光る。空雄は接近して道夫の懐に入り込み、両拳の光を一つに合わせ、力を倍増させた右拳を振り上げた。


「白猫拳――片極拳!」


 盾にした道夫の右腕に拳がぶつかり、強烈な白い光が散る。5本の指だった時とは桁違いの強度だ。神経が研ぎ澄まされ、全てがスローモーションに映る。道夫の右手が目の前に飛び出してきたが、空雄は体をよじり鼻先すれすれに回避した。しかし、実際には鼻を数センチ爪で切られており、赤色の線が顔に走り血が滴った。それでも空雄は体勢を立て直し、後方に距離を取りつつもう一度拳を握った。


「なぜ分からない。何度やっても、同じ結末になると」


 何度も繰り出される黒い爪をギリギリでかわし、空雄はまばたきする時間さえ惜しみ集中していた。今度は髪と耳が切れる。次々と増えていく傷、痛み。空雄は歯を食いしばり、立ち向かい続けた。


 道夫と空雄は距離を置いて止まった。


「つらいだろう」


 道夫はあわれむ声で言った。空雄の体は、元が何色なのか分からなくなるほど赤く染まっていた。顔も傷だらけで息は絶え絶え。意識がとびそうになる。今にも倒れそうだ。そんな消耗した状態で一歩踏み出す。空雄は血でぬれた拳をもう一度強く握り、キッと目を開いた。走っていた。勝つことだけを考えて。


 道夫の前に迫ったとき、一瞬目に映る全てが二重に見えた。照準がぶれた。視点が定まらない。空雄の胸に、真っすぐ鋭い爪が突き刺さろうとしていた。


 流太はあぜ道を1人歩いていた。青い空にのどかな田園風景。何のために歩いているのか分からないまま、ただ道が続く限り足を止めなかった。


 ある家の前にやってきた。橋本と書かれた表札のかかった立派な平屋で、中からにぎやかな声が漏れてきた。塀の位置から庭にある一本松の高さまで、記憶の中にある昔の光景と同じだった。流太は門の前で逡巡し、あとは声に導かれるまま敷地内に足を踏み入れていた。


 庭に面した戸は開け放たれ、居間で楽しそうにする家族の姿が見えた。やんちゃそうな男の子がテーブルの周りを走り弟と遊んでいる。


 あれは、幼いころの自分と弟の寛太。懐かしい記憶を目の当たりにし、流太は思わず口元を緩めた。ドタッと派手に弟が転んだ時、流太は手を伸ばしていた。だが、先に手を伸ばしたのは小さな流太だった。


 寛太は頭を打ち付け家中に響く声で泣いた。こんなふうに寛太はことあるごとに泣いた。そのたびに、流太は大丈夫だと言って励ましてやった。


「まぁまぁ、どうしたの? また転んだのね」


 奥から現れた女性を見て、流太は目を大きくした。母は優しい笑みを浮かべ寛太を膝の上に乗せると頭をゆっくりなでた。


「よく走って、元気に遊ぶことは大事なこと。大人になると、こんなふうに兄弟で走り合うこともなくなるから。いっぱい走って、たくさん遊びなさい。今度は転ばないように」


 ぐずっていた寛太は母にべったりで、しばらくすると泣きやんだ。そんな時、自分はというと、少しうらやましそうに横目で2人のことを見ていた。


 そうだ、この時はまだ平和だった。


 いつからだろう、全てが壊れ始めたのは。


 見ていた光景は遠ざかり、完全に見えなくなった。流太はまた1人暗闇の中に戻り、次に近づいてくる光景に目を覆いたくなった。そう、24歳の時、突然猫戦士になった日。憑依された時の記憶はない。あぜ道の真ん中で意識を取り戻し、翌朝には耳としっぽが生えていた。


 父と母は、流太のことを町の住人に黙っていた。息子が猫になったことをばれないよう、父は外出を禁じ、庭の隅に小屋をつくり、鎖で首をつないだ。


”猫の祟り”


 父はそう言った。息子は呪われたのだと。


 それから頻繁に父と母の怒鳴り声が家から聞こえるようになった。多くは夜の時間帯で、物が壊れる音や母の悲鳴が聞こえることもあった。そんな時、流太はいつも真っ暗な小屋の中で耳をふさいでいた。


 そんな中、母は突然死んだ。


 家の中で首をつったのだという。他所で行われた葬儀には当然参列させてもらえず、流太は最後に母の顔も見れなかった。最後に母と言葉を交わしたのは、死の2日前だった。


”強い母でなくて、ごめんなさい”


 泣きながら母は言った。思えばあの時、既に死ぬことを考えていたのかもしれない。誰にも相談できず、唯一本当のことを話せる夫でさえ、人が変わり、暴力的になった。流太は自分を責め続けた。


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