第52話 人に戻るとき

 そのころ、流太は息を乱しながら鳥居をくぐり、石段を駆け上がっていた。境内に出ると横に並んだ猫の石像は一つ残らずなくなっていた。空を舞う光の粒は本殿に降り注いでおり、中をのぞくと光を全身に浴びる1人の女性が両手を上げていた。猫善義王、にゃんこ様はそっと目を開いた。


「美しくて声も出ないか」


 流太は笑った。にゃんこ様はふぅと息を吐くと手を下ろした。


「麗羅なら外にいる」


 流太は地下室に行こうと伸ばした足を止め外に出た。桜の前を通りかかった時、幹に寄り掛かる麗羅の後ろ姿が見えた。一瞬にして心は遠い昔に戻り、あの頃の日々が頭の中に流れ込んできた。彼女の笑った顔、泣いた顔、怒った顔、全てが色を取り戻していく。


「麗羅」


 流太の声に振り返った麗羅は幹を頼りに弱々しく立ち上がった。彼女はもう、憑依された白髪ではなかった。元通り人間の姿をしている。それでも何一つ変わらない。


 輝く太陽のように彼女はほほ笑んだ。流太は駆け寄って抱き締め、麗羅もそっと手を回した。


「ずっと……ずっと――」


 流太は不安定な声で言った。


「会いたかった!」


 もう冷たくない。石のように硬くない。抱き締めた体は壊れそうなくらい細く柔らかく、小さかった。


「私も」


 言葉がちゃんと返ってくる。夢みたいだった。


「俺のせいなんだ。俺が……」


「流太は悪くない」


 麗羅は同じ言葉を投げかけた。何も悪くない、と。やがて言い返すこともできなくなった流太は喉の奥を鳴らした。


「自分が一番年上だから、頑張らないと。そうやって、流太はずっと1人で頑張ってきたんだよね。分かるよ。だって、最初に猫戦士になった人だもん。誰よりも頑張らないといけないって、責任を感じていたんだよね。でも、悲しかったら、うれしかったら、泣いて、笑っていいんだよ」


 麗羅は言った。


「来てくれてありがとう、流太」


 負の感情全てが浄化されていくみたいに、流太の口元は自然と緩んでいった。


「待たせた」


 やっと出た言葉はもう、震えていなかった。満ち足りた声だった。


「大して待ってないよ」


 麗羅はクルリと回った。


「でも、こんなに大きくなってて、びっくり。桜」


 流太はそばにある桜の木を見上げた。麗羅が石になっている間も、木は成長を続けた。その前は、もっとずっと小さかった。


「私がいない間、いろいろ変わったんだね」


 麗羅は憂いを帯びた目で言った。


「ここから見える町の景色も、こんなにキラキラしていなかった。私、どれくらい眠っていたんだろう。あんまり変わっているから、不安になっちゃった。でも、流太の顔見て安心したな。だから私、幸せ。ほら、見て。空がこんなにきれい。あれは何かな? 星が落ちてくるみたい」


 麗羅は夜空に延びる天の川を指さして言った。溶けた結界の一部が青い光の粒となり、今も大きな流れをつくっていた。


「届くかもしれない」


 流太はしゃがみ込んだ。麗羅は体をグラグラさせながら流太の肩に乗り、頭にしがみついた。流太が立ち上がると麗羅の視線は一気に高くなった。少しどぎまぎしながらも、麗羅はいたって真面目に背伸びして手を伸ばした。


「うーん、届かない」


「ちゃんと手、伸ばさないと」


「うぅ」


 麗羅が一生懸命手を伸ばしていると、群生からはぐれた光の粒が一つだけ落ちてきた。


「あっ! 前!」


 流太が移動したところで麗羅は両手で光を包み込んだ。


「取った!」


 麗羅は得意げに笑った。


「見たい?」


「もったいぶるな」


「じゃあ、見せてあげる。開いたら逃げちゃうから、見逃さないで」


 麗羅は握った両手をゆっくりと下ろした。流太の顔の辺りで止め「いい?」と尋ねる。


「見えない」


 むっとして麗羅は手をさらに奥へ伸ばした。注文の多い流太に文句を言ってやろうと下を向いた時、麗羅の口は流太の唇に重なっていた。しっかり閉じていたはずの両手は緩み、隙間から逃げ出した光の粒が2人の顔を照らす。永遠のような時間。麗羅は言うのを諦めて目を閉じ、身をゆだねた。唇がそっと離れ、2人は見つめ合った。


「麗羅」 


 流太は麗羅の頰に優しく手を添えて言った。


「あんた以外、他は何もいらない」




 神社の本殿に戻った空雄たちを出迎えたのは大人の姿になったにゃんこ様だった。石井道夫は砂となり完全に滅んだのだと、彼女ははっきり告げた。にゃんこ様が少女から大人の姿になったのは、これまで道夫によって奪われていた力が戻ったからだ。危険な石男がこの町から消えた今、監視する結界は全て不要になり、にゃんこ様は千本ある結界の全てを消滅させた。


 驚いたことはもう一つある。境内にあった猫の石像が一つ残らず消えていたことだ。猫たちがどこに行ったのか、にゃんこ様は答えてくれなかった。


「1カ月後、おぬしらは人間に戻る」


 本殿に集められた猫戦士を前ににゃんこ様は言った。


 待ちわびた言葉に、空雄は例えようのない充足感に満ちていた。横を見ると、みんな顔を引き締めてはいたが、どこか希望に満ちた顔をしている。この場には石から元の姿に戻った沢田麗羅の姿もあった。実を言うと、彼女とはまだ言葉を交わしてもいなかったので、空雄はさっきからずっと気になっていた。彼女は憑依が抜けた黒い髪をしていたので、すでに人間に戻った後なのだろう。聞きたいことはたくさんあった。なにより、隣に座る流太が向ける彼女への視線。彼にとって、麗羅は本当に大切でいとしい人なのだなと思った。


 にゃんこ様から告げられた1カ月後という明確な期間。それまでは猫戦士の姿のままなので、おのおの好きに過ごせる時間となった。実感が湧かないまま集会は終わり、空雄は部屋の隅に座り麗羅たちのことを見守っていた。本当に久々の再会に、抱き合い涙を流す鈴音や条作たち。空雄の知らない時間をともに過ごしてきた仲間たちの再会に水は差せなかった。


「空雄くん、だよね」


 ぼんやりしていると、麗羅が目の前にいた。


「みんなから聞いたよ。決着をつけたのは君だって。すごいな」


 真正面から笑顔で褒められ、空雄は気恥ずかしくなった。


「私は沢田麗羅。あなたが白丸に憑依される前に、猫戦士をしていた。道夫の言葉を信じた私はばかね。石になる代わりに仲間を殺さない、なんて。石になった後も流太たちは死に続けた。関係のない君を巻き込んだ。私の判断はまちがっていた。本当に……ごめんね」


「仲間を救いたい。必死になって下した判断を否定しません」


「君は強いね」


「よし、じゃあ今夜は大宴会だ」


 急に現れた流太は気分よさそうに言った。


「空雄、あんたの家族も呼ぼう」


「いいんですか?」


「もちろん。宴会は多ければ多いほど楽しい」


 空雄の心はこれ以上にない期待でいっぱいになった。1カ月後には人間に戻れる。これで、かつて小春と交わした約束を果たすことができる。小春の声が鮮明によみがえる。どんなふうに言おう。きっとみんな喜ぶだろうな。 


 流太たちが猫屋敷に戻った後、空雄は1人外に出て電話をかけた。


「もしもし?」


 母の声がして心臓が高鳴った。


「母さん。俺、人間に戻れるんだ」


 母は無言のままだった。


「母さん、聞こえてる?」


「本当なの?」


 か細い声が聞こえた。


「本当だよ」


「なんてこと……」


「待たせてごめんね」


 電話越しに母のすすり泣く声が聞こえた。


「今すぐではないけど、1カ月後には戻れる。にゃんこ様が約束してくれた。それで、今夜猫屋敷で宴会を開こうって話になったんだけど、来れる? 流太さんが、ぜひ俺の家族もって」


「行けるよ。お母さん、いつでも行けるからね」

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