第46話 最後の拳
初めて会ったときから思っていた。麗羅は本当によく話す女だと。何げない話にも流太は耳を傾け、思った通りのことを話すようになった。このころは猫戦士の役割も案外曖昧で、石井道夫をどんなふうに倒せばいいのかも分かっていなかった。技にも名前はないし、力の使い方も試行錯誤するしかなかった。
石井道夫と遭遇するうちに、やつの弱点が見えるようになった。心臓を貫けば、確実に消滅させることができると。エネルギーを拳にためられる手袋はにゃんこ様が作り出したもので、使うと威力が何倍にもなった。猫拳なる技の名前は全て流太が命名したもので、単なる思い付きでもあった。
最初から対等にやり合えたわけじゃない。流太は黒い爪の犠牲になり続けた。何回死んだのかさえ忘れるほど、数えきれないくらい。恐怖におびえ、死を思い返し嘔吐する日もあった。麗羅も死んだが、流太はその何倍も死んだ。2人は傷をなめ合うように寄り添い続けた。どんなにつらくても、お互いそばにいれば乗り越えられると。
流太は何度も町に繰り出し戦い続けた。何事にも前例は必要だ。だからこそ、自分がその前例になり、教訓を残す必要があると。
それから鈴音、条作、悟郎……にゃんこ様が使わせた五大猫神使たちは彼らを選び、猫戦士として神社に呼び寄せた。その頃からだ。流太が笑うようになったのは。つらいことも全て、忘れられるような気がしたからだ。そうやって生きていたら、いつの間にかそれが自分になっていた。
新しい人間に生まれ変わった気分だった。そういう意図もあって、本名である橋本隆太を、橋本流太にした。肩の力を抜いて流れるように生きた方が、憎むよりも愛する方が楽なのだと、そう思えるようになったからだ。
全てを振り返り、流太は今、本殿の縁側に座っていた。そばに1匹の黒猫がやってきて、流太を見上げるとにゃーと鳴いた。流太は手を伸ばした。黒猫の頭をなでているうちに、頭の中に響く声があった。
”流太さん”
そこで唐突に忘れかけていた存在を思い出した。いつも引っ付いて純真な目を向け、ひたむきなやつ。白い髪をしていて、名前は……
「空雄」
流太はポツリと言い、石段を越えた先を見据えた。
チリンと鈴の音がした。
前を見ると、鳥居に続く石段の前に白く長い髪を風に揺らした麗羅が立っていた。今にも解けてなくなりそうな雪のようにはかない姿。気付けばそばの桜は満開で、小さな柔らかい桃色の花びらが2人の間を舞っていた。
「流太」
記憶の中で、ある時期から止まっていたその声。
麗羅が石にされた時、流太は封鎖圏外にいた。あの時、自分さえそばにいて戦っていれば、麗羅は首輪を外さなかったのかもしれない。彼女を1人にさせたから、一緒にいなかったから……麗羅は石にされた。封鎖が解けた場所で見つけた彼女の姿が、今も頭から離れない。
流太は飛び出していた。抱き締めようとした手は宙をつかみ地面に倒れた。無力なのは今も昔も変わらなかった。抱き締めることも、大丈夫だと言って笑うことも、できない。
「立って」
麗羅は言った。流太は地面に両手を着いたまま首を振った。
「友達を、信じて」
麗羅は未来を見ていた。過去ばかり振り返っていた流太の心に響く”友達”という言葉。
今しなければいけないのは、泣くことなのか?
意識が徐々に、前へ向く。
随分年の離れた友達だが、頼りになって誇らしい気持ちになる男。空雄は吸収力があり、なおかつ努力して人のために戦える。最初は頼りないとさえ思っていたが、教えるうち、気が付けば期待していた。
「自分が負けても、信じて応援してあげるのが先輩の務めでしょ?」
麗羅は言った。
「流太が期待した子だもん、大丈夫だよ」
麗羅は流太の背から手を回し、優しく包み込んだ。そこから2人の間に白い光が生まれ、柔らかい大きな羽のように広がっていった。
流太は立ち上がった。背中が軽い。
真っすぐ前を見た瞳には、もう迷いがなかった。残った白い光は徐々に強く大きくなっていき、視界を真っ白に染
め上げた。
――――――
――――
――
息のない流太の体から耳としっぽが消えた。体からあふれ出した黒い光が空雄に染み込んでいく。黒く鋭い爪先が胸を貫こうとした時、力が体中にみなぎるのを感じた。空雄の髪は半分が黒くなり、目の色も片側だけ黄色になった。
消えかけていた白い光を守るように黒い大きな光が拳を包み込み、高さ100メートルはある巨大な白と黒の光が立ち上った。一瞬の間に起こったことなのに、空雄には長い時間に感じられた。首をよじり、胸を突き刺そうとしていた爪は空雄の左腕を切断する。空雄は痛みを感じなかった。残された右拳に全力を注ぎ、吸い込まれるようにして道夫の胸に振り切った。
バキバキ音を立て胸骨を破壊し、拳は奥に突き進む。人間の体とは思えないほどに硬い。それでも空雄は前に拳を押し続けた。
「お前に選択肢などない!」
空雄は叫んだ。
「死ぬのはお前だ!」
全ての力を拳の先に込め、空雄は心臓を貫いた。もう、拳の先に立ちふさがるものなど何もなかった。胸に穴を開けた石井道夫は天を仰いだまま静止し、セピア色の草地へ背中から崩れ落ちた。ゆっくり、ゆっくりと、一本の爪が元の指に、爪に戻っていく。道夫はもう、起き上がらなかった。
空雄は倒れ、大量の血が流れる左腕を押さえた。戦っている時には感じなかった痛みが激痛となって襲う。今まで経験したことのない苦しみ。空雄は我慢し、すぐそばで息絶えた流太の元にはいつくばっていった。全身が死を予感している。力がなく、立ち上がることもできない。必死に草を右手でつかみ、彼の元に着くころには息が浅くなっていた。
動かない流太。彼の体には耳もしっぽもなかった。さっき、突如現れた黒く大きな光は、流太の体からすっと出たように見えた。猫戦士特有の鼻がつんとした顔立ちはより人間らしく、青年に相応しい顔になっていた。
「また生き返る。そうでしょ? だから俺……それまで、そばにいます。そしたら俺たち、また一緒に神社に戻って……」
意識がもうろうとしていき、頭も上がらなくなった。気付けば意識は真っ暗な世界に落ちていた。
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