第7話 親指の約束

「例えどんな物を差し出されようと、その子の代わりにはなりません。ですが、あなたの大切なものを信頼の担保として受け取ります」


 母と流太は目を合わせた。この沈黙が数分続いた後、流太が先に視線をそらした。彼はなぜか台所に歩いていくと包丁を取り出した。今度は庭に向かう彼の袖を、空雄は引っ張った。「待ってください!」


 流太は立ち止まり、わずかに視線を向けただけで、あとは振り返らず外に出た。流太は家の屋根に飛び乗ると、懐からひもを取り出し口に詰め込んだ。


「母さん!」流太は言った。「早く止めないと! あの人、また自分を切るつもりだ!」


 空雄は急いで部屋に戻り階段を駆け上がった。流太がいた屋根の上に一番近いのは妹の部屋。空雄はベッドの上で眠る小春の横を駆け抜け窓を開け放った。


「やめろ!」

 叫んだ。


 制止の声はむなしく夜の静寂に響き、真っすぐ振り下ろされた包丁が流太の左手にある親指を切り落とした。屋根の上に転がる小さな親指と、滴り落ちる血。わずかに照らされた彼の横顔は、痛みをこらえていた。空雄は屋根の上に飛び出すと流太の胸倉をつかんでいた。


「なんで切った」


 その声で起きたのか、様子を見に来た両親の隣には、状況の理解がさっぱり追いついていない小春の姿があった。流太はボトリと口からひもを落とした。


「なんで!」


 鬼のような形相で迫る空雄に流太は目を見開いたまま静止した。誰もが、空雄の怒り狂った声に動くのをやめていた。


「……母さんは信頼を預けると言った。あんたが預けようとしたのは何だ? 何を! 預けようとした!」


 小さく下を向き、流太はこんな状況にもかかわらず笑んだ。人をあざ笑うような態度が癪に触り、空雄はさらに顔を近づけた。「親指と、自分の苦しみか」


「俺たちは、24時間後には再生する。刺しても、切っても、ちぎってもだ。体の一部。それが俺の誠意だ」


「ふざけるな!」

 空雄は声を荒げた。


「再生するからって、簡単に自分を傷つけていいのか」

 どんどん声に力が入らなくなっていく。どうしてこんなに胸が苦しい。初めて会った、生い立ちなんてまるで知らない青年に対して。空雄はずるずると力なく膝をついた。流太は最初「分からない」と言いたげな顔をしていた。空雄が流太の行動に理解できないのと同じで、彼もまた、空雄が激怒する理由が分からないのだ。だが、自分のことのように苦しむ空雄を見ているうちに、流太は目から徐々に驚きを消していった。


 空雄はもう一度、流太の目を見た。


「そりゃあ……俺もあんたも、どんなに傷ついたって、1日たてば再生する。そうなんだろ? だからだ。体が元に戻ると知っているから、こんなことができる。もう二度と戻らないものだと知っていたら、あんたは切ったのか」


 流太はこれまで見せなかった顔をした。図星を言われむっとする少年みたいに、その表情はあどけなく映った。空雄の脳裏には、痛みに耐える流太の顔が映っていた。例え、けががなかったことになっても、記憶はリセットされない。傷つければ、傷つけた分だけ、痛みの記憶は積み重ねられていく。 


 空雄はひもを奪い、血が止まらない流太の指に巻き付けた。見たところ、けがの度合いは普通の人間と変わらない。実際に指を切断した場面に出くわしたことはなかったが、とにかく止血しなくてはと思い、結び目をきつくしばった。流太を引っ張り、空雄は家の中に入れると傷の処置をスマホで調べ、最善を尽くした。父も母も、突然のことに驚く小春でさえも、流太の手当てに奔走していた。


「これでひとまず応急処置はできたが、本当に……病院に行かなくていいのか」


 血に染まったティッシュをごみ袋に入れながら父が言った。流太は居間のソファに寝かされ、おとなしくされるがままになっていた。


「平気だ」


 流太は言った。そこへ、お盆に水の入ったコップを載せた小春がやってきた。


「あの、よかったら、これ、どうぞ」


 妙にたどたどしく、小春は緊張して言った。だいたいの話はさっき母に説明されていたが、やはり見知らぬ男、しかも猫戦士を前にして緊張しないはずがない。流太は「ありがとう」と言って受け取り小さく笑んだ。敵意はないのだと分かり、小春は安心して空雄の隣に身を寄せた。

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