第6話 五大猫神使
母の後ろで父が口をつぐんだ。簡単には人間の姿に戻れない、その言葉がどれだけ重たいのかを、この場にいる空雄だけでなく、父と母も感じ取っていただろう。
「この町には、石男という邪が存在する。そいつが猫を石に変え、猫善義王の力を奪っているんだ。だから猫善義王は猫の使いを人間に憑依させ、戦う存在として戦士にする。全ては石男を滅ぼし、自分の力を取り戻すために。とまぁ、事の経緯はこんなところだ」
母や父がこの話を簡単に信じるものかと空雄は思った。母は完全に信じているわけではなさそうだったが、その顔には曲げられない意思の強さが浮かんでいた。
「息子が元に戻る方法を、知っているんですか?」
母は視線をそらさずに言ったが、流太は口を堅く閉ざしたままだった。軽々しく「ある」とは言えないのだと空雄には理解できた。話が本当であれば、流太も元は人間だった。それが、黒猫に憑依され、24時間で体が再生する猫戦士となった。彼だって、きっと同じはずなのだ。人間に戻りたいというその思いは。
「この子の体は一晩で変わりました。人間の耳はなくなり、猫の耳に、それからしっぽも。今の話をこうなる前に聞いていれば、私は信じなかったでしょう。ですが、空雄が猫の姿になってしまったことは、端から見ても事実。だから、あなたがおっしゃる話の辻褄は合うことになります。どうか教えてください。空雄が元に戻る方法を」
「方法ならある」
流太の言葉に全員の顔に希望が浮かんだ。
「どうすれば?」
父が間を空けずに尋ねた。
「猫善義王の望みをかなえ、人間に戻してもらえばいい」
「つまり、その石男を滅ぼせと?」
父は失意を目に浮かべて言った。空雄は不安と恐怖に自信のない視線を床へ注いだ。
「そうだ」
「母さん、憑依された人間は、その時の記憶を忘れるんだって。この傷は、その証拠。この体は、午前0時を迎えるのと同時に憑依された日に戻るんだ」
母は空雄の肩に手を置いて目を見つめた。
「どういうことなの?」
「分かんないよ、俺だって」
戸惑っていると、流太が部屋の奥に踏み入り、
「刃物をくれ」
と言った。
「言うよりは早いかと思ってね」
空雄は一瞬、彼の言葉の意味が分からなかった。父が卓上のはさみを渡すと、流太はそれを目の前で自分の左手に切りつけた。父も母もあっと驚き、空雄は顔を悲痛にゆがめた。彼の白い肌にどろっとした赤い液体が伝い床に落ちる。
流太はチラッと時計を見た。秒針が一回りして時刻が午前0時を回ると、ある変化が起こった。流太の左手にあったはずの傷が、早回しをしているようにふさがり、床に滴った血でさえ跡形もなくなった。
「なにが起こった」
父が気の抜けた声で言った。
「簡単な話さ。午前0時を迎えたのと同時に、憑依された日に体が戻っただけ」
憑依された日に体が戻る。その言葉が、じわじわと信じ難い現実味となって襲い掛かる。なにかこう、SFかファンタジー映画に出てきそうな一幕を、スクリーンではなく、家の中で目にしているようなおぞましさだ。一方、流太が一瞬見せた痛みの表情も目に焼き付いていた。
「不死身、なのか」
父は自分の言葉すらも信じられない口調で言った。
「死なないわけじゃない。死んでも24時間たてば再生するだけだ。ほら、あんたの傷も」
空雄は自分の右手を見て驚いた。白丸にかまれた傷跡までもが24時間前に戻っていた。死んでも生き返る? 猫になっただけじゃなく、そんな生き物をも超越した存在に、自分が? ちゃんと血だって巡っている。ご飯だって食べられる。それなのに、自分の体は無限に同じ一日を繰り返す。空雄はふっと全身の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。母と父が寄り添い、ソファまで連れていってくれた。
「猫善義王のお膝元には、五大猫神使(ごだいびょうしんつかい)というのがいる。黒猫、白猫、三毛猫、ブチ猫、茶トラ猫。石男を滅ぼす鍵となるのが、白猫と黒猫。そのほかはあくまで下位の存在。白猫の憑依体は長いこと現れなかった。でも、ようやく現れた。それがあんただよ、空雄」
その言葉を聞き、ようやく最初に彼が言っていた言葉の意味がすーっと頭の中に入ってきた。流太はずっと待っていた、と言った。長い間、白猫の憑依体を待っていたという意味ではないのか。
「猫神社には、ちゃんと寝泊まりできる屋敷がある。神社はこの町の外れにある山の中。ここから車でならあっという間の距離だ。これが今生の別れってわけじゃない。お互い、家に行ったり神社に行ったりして会える」
母は父に目配せすると前を向いた。
「私が引き止めても、あなたは力ずくで空雄を連れて行くつもりですね」
流太はうんともすんとも言わなかった。
「分かりました」
空雄は驚いて母の顔を見た。
「いいのか、彼は――」
父は言いかけて口を閉じた。力強い目で母が見返したからだ。
「ですが」母は続けた。「所持品でも構いません。あなたの大切なものを差し出してください」
頑として言い張る母を前に流太は無表情になった。
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