第57話 あの場所へ

 空雄は奇声を上げて目覚めた。車の中だった。隣には驚いた顔をする小春。前には父と母。空雄は小春の肩をつかんで詰め寄った。


「俺、死んでないよな! 生きてるよな? なぁ!」


「お兄ちゃん! 落ち着いて! どうし……」


「俺……俺……」


「お兄ちゃん、顔――」


 空雄は小春に渡された鏡を見て絶句した。17歳だったころの自分の顔は、明らかに年を取っていた。猫戦士だった時は見た目が永遠に変わらなかったが、なんだこれは。実年齢と同じようにシワもシミも増えている。これまで取った年が一気に加算されたみたいだ。身長も数センチ伸びているし、骨格も大きくなっている。ややあって、ようやく理解することができた。本当に人間に戻ったのだと。一気に体から力が抜け、空雄はずるずると背もたれに寄り掛かった。


 車は近くのコンビニで止まり、心配した父と母がドアを開けて後部座席に駆け寄った。


「俺、車にひかれたんだ」


 やっと出た言葉は、自分でも驚くほどに冷静だった。突然何を言い出すのかと、この場にいる誰もが困惑した表情を浮かべた。


「どういうこと?」


 母が切実な表情で尋ねる。


「あの日……死ぬはずだったんだ」


 父も母も小春も、黙って空雄の言葉を聞いていた。


「見たんだ。学校の帰り道、横断歩道を渡っていたら、ものすごいスピードで横から車がやってきて、ぶつかった。体が宙に浮いたんだ」


 生々しい事故の衝撃を思い出し、空雄はうずくまった。


「うそでしょ?」


 小春はサッと顔を青くした。口元を押さえた手が小刻みに震えている。


「お兄ちゃん。車の色、形は覚えてる?」


「黒の、ワンボックスカー」


 聞いた途端、小春は今にも泣きだしそうな顔になった。


「覚えてない? お兄ちゃんが猫になる前の夜、ご飯食べてる時、近くでパトカーを見たって、私言ったよね」


 空雄は顔を強張らせた。父も母も覚えていたのか、互いに顔を見合わせて黙った。


「私、私が見た――車……たぶん、同じだよ。捕まってたの。黒いワンボックスカーで。場所は、公園付近の横断歩

道。お兄ちゃん、どこで、ひかれたの?」


「そこ、だよ」


 空雄はポツリと言って脱力した。さっき見た光景の場所と完全に一致したのだ。この信じられない状況に誰もが口をつぐみ、これが現実なのかと理解できずにいたのだ。


「でも、お兄ちゃんは生きてる。事故には遭わなかった」


「単なる夢じゃ、ないのか」


「夢じゃない! あれは、起こりうるはずだった未来。いや、もしくは起こったけど、なかったことになった未来

――なのかもしれない」


 空雄は父の言葉を否定して言った。


「猫戦士になってすぐ、にゃんこ様に選ばれた理由を聞いたんだ。そしたら、なんて答えたと思う? 生きたいと願


ったからだって、そう言ったんだ。五大猫神使は生への執着心が強い人間を憑依体に選ぶって。強ければ強いほど、

器としての完成度が高くなるからって。真実は人間に戻った時、分かるだろうって。その時は、ぜんぜん意味が分か

らなかった。でも――やっと分かったよ」


「よく、分かんないよ」


 小春は首を振った。


「俺は願った。死にたくない。生きたいって。生きたかったんだ。だから、白丸は俺を選んだ……?」


 憑依が抜けた今、白丸は教えてくれたのかもしれない。自分を選んだ理由を。そうだ、あの時、自分は生きたいという執着心に駆られていた。家族の誰とも会えず、1人死んでいくことへの後悔。死にたくない、生きたいと。


 毎日数えきれない人間が死んでいる。きょうもどこかで。その全員が、納得のいく死を選ぶことはできない。やりきれず死んでいった人たちも大勢いる。自分は、そっち側の人間になるはずだった。交通事故に遭って、死ぬはずだった。これが紛れもない事実だとすれば、空雄はある意味で”救われた”のだ。猫の神様が使わせた白い1匹の猫に。


 ふと顔を上げた時、何か心に引っ掛かるものがあった。頭に浮かんだのは、頭をなでてくれた流太が見せた笑顔だった。猫戦士になっている間は成長が止まる。だとしたら、他の猫戦士たちも同じはず。流太たちは、空雄が猫戦士になる前からあの神社にいた。仮に、何十年も前からいたとしたら? 


 待て待て。流太の部屋にあったものは何だ? 


 空雄は顔を青くした。どれも、博物館にありそうなくらい古い書物。中には200年も前のものがあった。


「俺はばかだ!」


 突然叫んだ空雄に小春たちは驚いた。車から飛び出そうとした空雄の肩を父が引き止める。


「どうした」


「流太さんが! 流太さんが!」


 取り乱す空雄の肩をつかみ、父は冷静な目を向けた。


「落ち着いて話しなさい」


「猫戦士になった人間は、年を取らない。だけど、人間に戻った時、これまで流れていた時が戻るんだ。流太さんが

もし、何百年も前の人だったら?」空雄は消え入りそうな声で言った。「生きて……るのかな?」


「確証はあるのか」


 父は言った。


「あの人が持ってた古い本、200年も前のものだった」


 空雄は嗚咽を漏らした。


「じゃあ……あの人、いったい今、何歳なんだよっ!」


 父は運転席に戻ってアクセルを踏み、ウゥンと音を響かせながら車を走らせた。赤信号につかまり、時間がたつのが異様に遅く感じられた。


 早く、早く着いてほしい。


 空雄は祈る思いで待った。どうか、この憶測が間違いであってほしい。神社に近づくほどに、心臓がバクバクいう。確かめなくてはならない。


 時が一気に流れることを知っていたとしたら、彼は、彼らは……


 空雄はついに事の核心に触れ、全身から力が抜け落ちた。じゃあ、なんだ。彼らは、


 死ぬための準備をしていたっていうのか。


 そんなの、あんまりじゃないか。


 人間に戻ったら、また会おうって、言ってしまったじゃないか。


 なんてことを。これから死ぬと分かっていた人に。なんてことを言った!


 車が神社の前に到着し、空雄は死に物狂いで石段を駆け上がった。


「流太さん!」


 喉が痛くなるほど強く叫んだ。


「流太さん!」


 空雄は境内を走り回った。きっと、どこかにいるはずだ。


 どうして、どうして誰も教えてくれなかったんだ。


 苛立ちと、悲しみと、切羽詰まった思いのあまり吐きそうになる。散々捜し回った揚げ句、息を切らして石畳の上に崩れ落ちた。どこにもいない。彼がいそうな場所はどこだ。空雄は諦めずに体を動かした。


 風が吹いた。背中に何か感じた。空雄は振り返ることができなかった。


 そこに、いる。


 振り返るのが怖かった。


 もし――


「……空雄」


 いつもと変わらない青年の声だった。空雄は光を宿した目で振り返った。


 桜の木の下に、流太がいた。すぐ隣には、寄り添うように立つ沢田麗羅も。2人の姿は透けていた。 

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