第56話 生きたい
幸せな心地に浸っていると、台所から小走りに鈴音がやってきた。彼女の髪も黒白のブチから普通の黒髪に戻っていた。耳もしっぽもない。
「よかったぁ! 空雄くんも、戻れたんだね」
空雄と鈴音は手を取り合って飛び跳ねた。
「本当によかった」
今度は麗羅が来て、みんなを見て言った。
「喜ぶのもいいけど、早く準備しないと。迎えに来るんだろ?」
流太はクイッと顎で時計を示した。もう午前9時40分だった。
空雄ははやる気持ちを抑えて部屋に戻り、荷物を玄関前に並べた。洗面所で身だしなみを整え、忘れ物がないかのチェックもぬかりなく行った。自分の物が一切なくなったがらんどうの部屋を見返して、空雄はすっきりした気分になった。長い間お世話になった部屋だ。思い出もある。後ろ髪引かれる思いで部屋を後にし、空雄は居間に戻ろうと廊下に踏み出した。
「お兄ちゃん?」
小春の声。空雄は固まった体を玄関に向けた。しばし動けずにいた小春は、空雄の頭から足の先まで見た後で、満面の笑みを浮かべた。靴を放り投げ、空雄の胸に迷わず飛び込んだ。受け止めた衝撃で体がガクンと揺れ、2人は床に倒れた。妹の体は小刻みに震えていた。
「戻ったんだね、本当に」
小春は声を上げて泣いた。
「うん」
空雄は笑顔で答えた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
どれだけ長い時だったか。その間に小春は大学生になり、大人の女性になった。まだ高校生だったころの幼さが残る顔は、記憶の中にだけある。そこへ、小春の後ろから両親の姿が朝日にかすんで見えた。
「空雄!」
母は空雄の姿を見るなり駆け寄って抱き締めた。父は感無量に等しい顔で立ち尽くしていた。
「よく頑張ったね」
これまでの苦労が水に溶けるような母の言葉。
「空雄、これは私たちで話し合って考えていたことなんだが、聞いてくれないか」
父が真剣な声で言うので空雄は姿勢をただした。
「空雄が元通り人間に戻ったら、この町を越そうと考えていた」
「越すってどこに?」
驚く空雄の手を小春がギュッと握った。
「海が見える町だよ! ほら、お兄ちゃん海好きでしょ? ひろーい海が見渡せる、小高い丘の上に、いい古民家があるの。隣町だからここからそんな遠くない。きっとお兄ちゃんも気に入ると思うな。ずっと秘密にしてきたけど、今言うべきだって」
「……でも、父さんの仕事は?」
「大丈夫。お父さん、ちょうど転職しようと思っていたところだし」
「でも俺、何もできないよ。学校にも行ってなかったし」
「焦らなくていい。空雄は空雄なんだから。これからいくらでも取り戻せるって、お母さん思うけどな」
母の優しい手が空雄の頭をなでた。こんな年になってまで、母に頭をなでられるのは気恥ずかしい。けど、うれしい。
「それじゃあ、行こうか。荷物はこれか?」
父は玄関にまとめてある荷物を見下ろして言った。
流太がやってきた。
「空雄はよくやってくれた。勝つことができたのは彼のおかげだ」
「皆さんのおかげですよ」
たった今言おうとした空雄の言葉を代弁するように母は言った。
「この子を支えてくださった、そばにいてくださった。ただでさえ心細かったのに、ここまでやってこられたのは、
1人じゃなかったから」
「本当のことを、言ったまでだ」
「私からも感謝を述べさせてください」
父は流太の肩をポンポンとたたいてしっかり目を見た。
「ありがとう」
流太は父の顔から目を離せなかった。ほどなくして、また笑顔を取り戻し、前を向いた。
「帰りはどうかお気を付けて」
流太は言ってから空雄をチラッと見た。
「世の中には仕事ができることや、お金をかせぐことより難しいことがある。それは、自分の命を危険にさらしてまで守りたいもののために戦うことだ。それを素晴らしいとは思わないけど、とても勇気のいることだ。この勇気は今後、彼の人生の糧となり、新たな気付きとなる。もちろん、それには本人の努力も必要だけど。彼なら大丈夫だ」
流太の言葉には重みがあった。最後に母と父は流太に深々と頭を下げ「お世話になりました」と言った。空雄と小春も頭を下げ、荷物を運びながら外に出て石段を下りた。下には車が止めてあって、いよいよ人間の姿になって家に帰れるのだという実感が湧いてきた。
下まで見送りに来てくれた流太と麗羅、鈴音は父と母、妹が車に乗り込むのを見守っていた。空雄は車に乗り込む前に3人と向き合った。
「本当に、ありがとうございました」
空雄が言うと、流太はうなずいた。
「あんたに会えてよかった」
「俺も、あなたみたいな上司と会えてよかった。流太さん、麗羅さん、鈴音さん、どうかお元気で」
「空雄くん! 私もあなたと会えてよかった。ありがとう!」
鈴音は笑顔で手を振り、その隣で麗羅は「さようなら」と声を掛けてくれた。
車に乗り込み、窓を開けて同じように手を振った。車が走り出し、3人の姿が小さくなっていく。空雄は後ろに身
を乗り出し、流太たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。前を向くと、ルームミラー越しに父と目が合った。
「寄りたい所は?」
海、と言いかけて空雄は首を振った。
「家に帰りたい」
父は視線を前に戻した。流れゆく町の景色を目で追いながら、空雄はこの空間に安心して身をゆだねていた。
「なんだかさみしいね。流太さん、いつもお兄ちゃんのそばにいてくれたし」
「うん」
「空雄、きょうの晩ご飯、何食べたい?」
母が助手席から尋ねた。
「えっと、ハンバーグ、あとはそうだなぁ、すき焼きとか」
「それじゃあ今夜はごちそうだね。お兄ちゃん。そこにエビフライも追加!」
小春が元気な声で言うと母は笑った。父の顔も、笑っている。空雄はそんな光景を見ながら胸の奥がポカポカするのを感じていた。なんてことはない普通の会話なのに、すごく幸せだった。
「あ、お兄ちゃん寝ちゃった」
「きっと疲れてたんだね。寝かせてあげて」
車の揺れも相まって、空雄は急な眠気に抗えなかった。
――
――――
――――――
空雄は学校の帰り道を1人歩いていた。
後ろからはしゃぐ小学生の集団が追い越していく。
あれ?
ふと違和感に気付いて立ち止まる。いつも通り学校から家に帰っているだけなのに、何か大事なことを忘れているような。気のせいか、と思い空雄はまた歩いた。片側2車線の横断歩道で信号待ちをしていると、青に変わった。左右で車が止まったので、空雄は気付かなかった。右後方から猛スピードで交差点に突っ込んでくる1台の車に。
突然強い衝撃が右側から襲い、空雄は宙を舞っていた。
全てがスローモーションに見える。
どこまでも青い空。
高い場所から見下ろす町の全景が見えた。ふわりとした浮遊間も束の間、次には硬いコンクリートに頭からたたきつけられていた。遠くに靴やかばんの中身が散乱し、黒塗りのワンボックスカーが止まっているのが見えた。じわじわと赤い何かがコンクリートのへこみに染みわたっていく。遅れて恐怖と痛みが心と体をのみ込む。頭の奥がガンガンして、ぼーっとする。息ができなかった。
「人がひかれた!」
「救急車呼んで! 早く!」
周囲に人が集まり始め、空雄はようやく自分が交通事故に遭ったのだと悟った。
母さんに会いたい。
父さんに、小春に。
空雄は家を探して手を伸ばした。
母さん……
母さん…………
嫌だ。
こんなところで死にたくない。
死にたくない。
生きたい!
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