第40話 孤独

 空雄は0・2秒前に異変を感じていた。身をかがめたが、真上で髪がばっさり切られるのを見た。身を翻し、見た。あの男の顔を。茂みの奥にある暗闇から、こちらを見つめ、黒い爪をむき出しにしている。


 空雄は地面に倒れていた。一瞬の隙に黒い爪が迫ってくる。空雄は身をよじってかわし、頰をかすった爪先が地面に突き刺さるのを見た。抱えていた猫を茂みに投げ、右拳で爪をそらし、残る左拳で右の爪をつかむ。そうしていなければ、確実に両断されていた。遅れて自分が息を荒くしていることに気付いた。押しつける力は強まっていく。


「石井道夫……っ!」


「久しぶりだね、また会えてうれしいよ、白丸。奇襲をかわすとは、随分成長したものだ。上司があの無能とは思えないほど有能な部下と言うべきか」


 猫戦士との接触を避けてきたはずの道夫が、なぜ自分から? 明らかに狙って出たようなタイミングだ。言いたいことは山ほどある。この数年間、クツクツと煮えたぎってきた怒り、悲しみ、悔しさ。一言では言い表せないくらいに、収まりきらない。でも、今のところ、こんな言葉しか出てこなかった。


「死ね!」


「助けを呼んだらどうだ。1人では、戦えないだろう」


 力の押し合いでミシミシ関節が悲鳴を上げる。両手がふさがっている今、結界封鎖も発動できない。空雄はあがき、鬼のような形相で道夫をにらみつけた。


「お前を殺す。二言はない!」


 空雄の右拳から出た白い光が周辺をまばゆく照らした。大丈夫だ。この距離なら流太も封鎖圏内にいる。ここで道夫を食い止めれば確実に戦闘へ持っていける。


「白猫拳――結界封鎖!」


 拳を地面につけ、言葉を発する。しかし、何も起こらない。戸惑う空雄の背後から、流太が現れた。放たれた一発は道夫の右爪にぶつかり、カッと黒い光があふれ、風が茂み全体を揺らした。道夫は後方に吹き飛ばされ、空雄も地面に転がった。


「流太さん。封鎖できません!」


 空雄はすぐに起き上がって叫んだ。


「封鎖は結界が正常に機能している場所でしか使えない」


 流太は構え直しながら言った。


 そうか、この公園は消滅寸前の結界領域。結界が周囲にあることが前提となる封鎖は使えない。


 流太はもう、”下がっていろ”とは言わなかった。空雄は流太の横に並び、拳を握り、しっかり前を向いた。道夫は砂になって姿を消すことができる。そのため、封鎖されていない空間ではいつ逃げられてもおかしくない。封鎖されていない場所で戦えば建物や植物に甚大な被害をもたらすのは明白。現実世界での被害をなくすには、正常な結界内へうまく誘導し、そこで封鎖圏内に持ち込むことだ。しかし、誘導するには離れすぎだ。一番近い南にある結界の境界線までは400メートルもある。


 幸い公園の茂みより向こう側は人気も街灯もない真っ暗な森。ここでなら、直接的な戦闘をしても周囲には気付かれにくい。空雄は流太を見た。何か考えているのか、まばたき一つしていなかった。


「北側最短距離にある結界までやつを誘導する。それまで時間をかせぐ。俺が合図を送ったら結界を封鎖しろ。できるな?」


 北側? 空雄はハッとして森の向こう側に意識を向けた。この町の地理ならくまなく頭にたたき込んでいるから言われてすぐに分かった。この森を抜ければ、南側よりも500メートルは遠いが人目につかない上、夜の森に姿をくらまし戦える。


 空雄がうなずくと、流太はもう動いていた。地面を蹴り、複雑に伸びた木の枝に足をかけ、不規則な動きで道夫に迫り拳を振る。とにかく奥へ奥へ、北側へ追いやる。空雄も拳を握り前に進んだ。繰り出される2人の拳は道夫を確実に後ろへ追いやっていた。次から次に飛んでくる拳に、道夫は防戦一方だった。


 隙を与えるな。一時たりとも目を離すな。


 風で、視界で感じた。流太がどう動くのかを。竹林で培ってきた狭い所での戦い。互いの身のこなし。訓練の時は互いを倒すために拳を振るった。でも今は、互いの拳で一つの敵を倒すために振るう!


 道夫が手を広げた。


 くる。振り切ろうとした空雄の拳の前に流太が入り、そのまま空雄は後ろに突き飛ばされていた。目にも止まらぬ速さで放たれた道夫の斬撃は流太の拳に命中。石をも切り裂く攻撃を、流太は拳二つでしのぎきっていた。


「分かるだろう、黒丸」


 道夫は口角を上げて言った。


「長く生きることが孤独であると。君は1人だ。孤独だ」


 孤独。その強烈な言葉に流太は深い暗闇に手を引かれそうになっていた。水に溶けた墨汁が体をのみ込んでいくように。そんな混沌とした世界に。流太は思い出していた。全てが焼き尽くされ、炭と灰だけになった更地で、一糸まとわぬ姿で雨に打たれる自分の姿を。


 孤独。


 そうだ、孤独とは何かを知っている。


 1人ぼっちになる怖さを。話し掛ける者が隣から消えていくさみしさを。幸せを知っていたからこそ、失った時の孤独を強く感じる。例え光が差したとしても、忘れることはできない。燃え盛る炎がその身を焦がし、全てを焼き尽くす。


 燃えていく。


 なにもかも。


「孤独じゃない」


 空雄の声で流太はわれに返った。


「流太さんは孤独じゃない。お前は知らないんだ。流太さんには大切な仲間がいる。流太さんのことを、友達だと思

っているやつがいる。心が死なない限り、孤独になることはない!」


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