第42話 逃げろ

 今の空雄には、石井道夫の姿が流太と重なって見えた。やっと分かった。期待してくれた理由が。信じてくれたからだ。お前にならできると。


 距離を置いた道夫は笑みを消し去った。


「なぜやり合える?」


 顔には誤算、言葉には動揺さえ浮かんでいた。拳を交えるのは初めての猫戦士が、なぜ自分と対等に戦うことができるのかと。


「俺の上司が有能だからだ!」


 空雄は滑るように地を蹴った。右拳から白い光があふれ、周辺をまばゆく照らす。襲い掛かる不安と恐怖を振り払って、空雄は前に進み続けた。息もできないほど、気が抜けない。数ミリ単位で生死が決まる。空雄はもはや、その境地に達していた。放つ拳は全て黒い爪に防がれ、エネルギーが放出されるたび、隙に付け入ろうと鋭い斬撃が飛んでくる。


 髪が、服が、皮膚が切れる。もう一度エネルギーをためようと拳を引いた時、目の前に黒い着物がはためいた。


 漆黒の光が通り過ぎていく。わずかに目が合い、流太はうなずいていた。


 空雄は地面に膝を着き、目の前で戦う流太を見ていた。さっきの戦闘で、空雄は肩を深く切られていた。血が止まらない。それでもこんな傷、戦わない理由にはならない。血も汗も拭い、走りだそうとした空雄を、今度は悟郎が追い越していった。風を切って走るという言葉がふさわしい。赤色の光が彼の右拳をのみ込み、宙で大きな渦を巻いた。


「紅猫拳(こうびょうけん)」


 悟郎が放った拳は道夫の左手に当たり、右手は流太の連撃が押さえ込んでいた。挟み撃ちに遭った道夫の立ち位置は端から見ても不利だ。もう一本。エネルギーをため込んでいた2人の拳が前に出た瞬間、道夫は舞っていた。地上7メートルはある距離を。


 流太と悟郎は目配せすると視線の先を標的に戻した。攻めるか、守るか、空雄の頭に刻み込まれた行動パターン、次に来るのは――攻めだ。


 道夫は滞空している間に両手の爪を重ねた。流太は開いていた右手をきつく結び直し、降下と同時に手を上げた道夫へ振り上げた。黒い光が強烈な勢いで上空に飛び出し、道夫の爪と流太の拳が激突する。黒い爪は硬化された流太の拳に遮られ、切り裂くことはできなかった。2人を中心に、爆風が草地に伝っていく。空雄は風圧のせいで目も開けていられなかった。


 道夫の姿が視界から消えていた。一瞬の隙に、高速で移動したというのか?


「後ろ!」


 悟郎の怒声と忍び寄る殺意。空雄は声に反応し、体勢を立て直そうとした。真後ろで黒い爪が怪しげに光る。もう、道夫は目と鼻の先にいた。黒い右爪が、腹部に突き刺さろうとしている。瞬時、流太との対人訓練で体が記憶する行動パターンの一つと重なる。しかし、そこには圧倒的な力の差があった。対等。優劣がなく、同じ程度であること。行動が読めれば勝つことも可能だと、空雄はそう信じていた。力の差も、これまでの経験があれば埋められると。だが今、差と呼ぶにはあまりに大きな距離があった。やつは強い。現実を眼前にたたきつけられる。


 大量の血が噴き出した。自分ではない誰かの足が、真っ二つに切れ飛んでいた。オレンジ色の髪がなびく。悟郎は空雄の前に立ちふさがり、崩れかけた姿勢で紅猫拳を繰り出していた。腹部に赤色の拳を食らった道夫は数メートル先に突き飛ばされた。


 腰から力が抜けて、この状況に頭の中が混乱した。すぐそばには、膝から先が切断された悟郎の右足が転がっていた。片足を失い、血だまりに沈む悟郎。出てきたのか? 咄嗟に届く足を伸ばして。


 空雄は口元を押さえ声を押し殺した。悟郎の傷口から流れる大量の血は、止まらない。空雄は完全に平常心を失っていた。どうすればいい。どうすれば。このまま戦っていいのか。


 そうだ、結界を解除すれば。解除して、早く――


「迷うな」


 全てを否定する流太の声。


「やつを殺せ!」


 張り裂けそうな声に身がすくむ。


「最後の1人になっても!」


 空雄は小刻みに震える自分の拳を手で押さえつけた。流太の言葉が全身を駆け巡り、恐怖から引きずり出そうとする。でも、心のどこかで歯止めがかかっていた。そんな迷いを見抜いた悟郎の瞳が、力強くこちらを見る。彼は口元を動かした。”行け”と。


 空雄は雄たけびを上げた。


 強制的に体を動かす。2人の言葉を信じるんだ。その思いが強く背中を押し、迷いを拭い去った。もう、逃げない。悟郎のまなざしからも、流太の言葉からも、強い意志を感じた。全てをきょう、ここで終わらせるのだと。その思いは同じなのだと。


 空雄は両拳を力いっぱい握りしめ、道夫に白猫拳を振るった。連続して爪に防がれるも、その後ろには流太が待ち受けていた。間髪入れず突き出される黒猫拳。白と黒、二つの光は火花を散らすみたいに激しく舞っていた。


 さなか、鈴音は悟郎のそばで動けずにいた。条作が残酷に殺され、悟郎は足を切られた。戦うのが怖いなんて。なんのために来たのか分からなかった。


 ブルブル震える手に悟郎の手がかぶさった。死にかけた目が強く訴え掛ける。その次に、彼が何を言うのか鈴音には分かっていた。


”逃げてもいいんだよ”


 いつの日か、死ぬのが怖くて1人泣いていた時、麗羅はそう言った。


 戦わなければいけない。怖くても、苦しくても、悲しくても、立ち向かわなくてはいけない。自分は選ばれた猫戦士なのだから。鈴音は自分を追い込んできたが、彼女の一言がどん底から救ってくれた。それ以来、鈴音は無理をしない生き方を選んできた。勝てる見込みのない、危険な状況であれば身を引き、死なない程度に頑張る。他の猫戦士とは違い、そういう弱腰でこれまでやり過ごしてきた。周りもそれを許し、鈴音に戦えと言う者はいなかった。誰も何も期待しない、それが清水鈴音だった。


 だからこれまで、たった1回しか死んだことがなかった。流太に守られ、悟郎に救われ、条作に助けられ。麗羅に、みんなに甘えてきた。たった1回の死で発狂し、もう二度と死にたくないと取り乱した日から。ずっとずっと、逃げ続けてきた。正面から向き合わず、曖昧に、ただ時が過ぎるのを待って。


 逃げてもいい。その言葉は他の犠牲の上に成り立っている。何十回、何百回と死に続け、人間の境地さえも超越し強くなってきた流太や悟郎、条作。逃げずに石となった麗羅。何も変えようとしないのは自分だけ。このままでいいのだと、自分に言い聞かせてきた。


 でも、それでは大切な仲間を守ることも、石井道夫を滅ぼすことも、自分を超えることも、できない。ただ、仲間が殺されるのを見ているだけ。


 流太から応援の要請を受けた時、神社を出ようとした鈴音を悟郎は引き止めた。”お前はここにいろ”と。曖昧に首を振る鈴音に対し、悟郎はさらに言った。「戦う意志のないやつが行っても、邪魔になるだけだ」


 それでも鈴音は来た。


 なぜなら……


「逃げろ、鈴音」


 悟郎の言葉が鈴音を現実に引き戻した。

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