第2話 ……コスプレ、でしょ?

     ◆ ◆ ◆



 前日、高校2年生の奥山空雄は夕方の公園にいた。


 カラスの鳴き声が頭上を通り過ぎていく。空雄は学ラン姿のまま、芝生の上であおむけになっていた。きょうは4月23日。友達と校門の前で別れたところまでは覚えている。いつも通り帰り道を歩いていた気がするが、どうして公園にいるのだろう。


 ポケットの中をまさぐりスマホで時間を確認する。午後5時25分。授業が終わって校門を出たのは確か4時ごろだった気がする。学校から公園までは5分の道のり。家に直帰していれば、こんなに遅くなるはずがない。まさか、1時間以上もの間こうしていたというのか。空雄は一度冷静になり、頭に手を当てて考えた。


 公園のグラウンドでは小学生の男児たちがサッカーをして遊んでいる。犬の散歩をする女性や、遊具で遊ぶ園児たち。いつも見掛ける光景と何ら変わりない。


 ふと右手を見た時、身に覚えのない切り傷があった。2センチくらいで赤みを帯びている。まさか動物にかまれた? 空雄はすぐさま公園の蛇口をひねり、流水で傷口をすすいだ。少しひりひりしたが、我慢できない痛みではない。


 記憶が飛ぶなんて珍しいことがあるものだ。空雄は不思議な心地で帰宅した。母は専業主婦なのでたいてい家におり、この日も夕食の支度をしながら帰りを待っていた。


「おかえり。ちょっと遅かったじゃない」


「うん、まぁ」


 母には何も話さず2階に上がった。学ランを脱ぎ捨て、上下ジャージーに着替えてから居間に戻り、こっそり救急箱から消毒液と絆創膏を出し自分の部屋に戻った。 


 この日の晩ご飯は五目あんかけだった。空雄の好きなキクラゲにウズラの卵が入っている。つやつやしたあんに包まれた具材をレンゲで口に運ぶと、うま味がじわっと舌の上に広がる。やっぱりうまい! と思いながら二口目を運んだ時、味が妙に濃く感じられた。おかしいな。もう一口運ぶと、やはり気のせいではなかった。


「母さん、味付け変えた?」


「いつも通りだと思うけど」


「なんか、いつもより濃いような」


 母と父、小春も首をかしげるので、空雄は気のせいと思うようにした。なんだかきょうはおかしなことばかり起こる。


「そういえばきょう、すごいサイレンが聞こえたけど、何かあったのかしら」


 母は父の茶碗にお代わりのご飯を盛りつけながら言った。


「私も聞いた! 学校に帰って来る時パトカーが家の近くに止まっててさ、たぶんスピード違反か何かだよ。それか、一時停止違反とか。前に車止まってるの見たし」


「この時期、安全週間でパトロール強化してるらしいからな。私も気を付けるよ」


「でもお父さん、今まで無事故無違反のゴールド免許でしょ?」


 小春が言うと、父は眼鏡を押し上げてふふふと笑った。


 結局空雄は違和感を無視して完食し、自分の部屋に引き揚げた。気分は沈んでいたが、英語と国語の課題に集中した。午後10時になったところで風呂に入り、絆創膏を新しく替えた。モヤモヤした悩みも好きな動画を見るうちに忘れ、午前1時になったところでスマホを充電器に差し電気を消した。 


     ◆ ◆ ◆


 空雄は大きくのけぞり、小春はムンクの叫びみたいな顔をしていた。


「お兄ちゃん! なにそれ!」


 ドタバタ階段を駆け上がってくる足音と同時にドアが開き、母も小春と同じ顔になった。変な顔だが、笑えない。とにかくまずい、こんなに早く見つかるはずじゃなかった。


「これには、わけがあるんだ」


 たぶん、と心の中で付け足す。いや知らん、誰か説明してくれ。


「髪が真っ白! それに、耳としっぽまで。猫?」


 母は真剣な面持ちで言った。息子が猫になったのを受け入れられる母親が、この世界にどれだけいる? 空雄は逃げ場のない状況に目を泳がせた。あれこれ考えたが、結局はこうだ。正直に言えばいいだけ。何も悪いことはしていないのだから。朝起きたら猫になっていた、その一言でいいじゃないか。その後のことは、なるようにしかならない。


「説明? そんなのいらないよ」


 急に小春が恥ずかしそうに言うので空雄は二度見した。なんだなんだ?


「コスプレ、なんでしょ? 見られたくなくて、隠れてただけなんだよね? そんなにコソコソしなくて大丈夫だよ。リアルな耳、しっぽ。この髪は……ヴィッグ? すごい、本物みたい」


「触るな!」


 好奇心の鬼と化した妹をはねのけ、空雄は手をバタバタした。


「大丈夫だよ、お父さんには内緒にしておくから」


「ちがう!」


 小春と母はわめく空雄を見て黙った。


「ちがうんだ」


 空雄は気の抜けた声で言った。


「何が、ちがうの?」


 母は小春の言葉を半分本気にしていたのか、静かに尋ねた。


「分からないんだ。起きたら突然こんなものが生えていて、耳は過敏になっているし、爪もこんなに伸びて。コスプレじゃないよ!」


 母は急に事態を察したのか、目を丸め空雄の体を支えた。


「空雄」


 またコスプレだと言うのか。空雄は拒否する目を向けた。ところが、


「大丈夫。大丈夫だから。ね、空雄」


 母は口元を緩ませ、目を優しく細めていた。


「学校のことは大丈夫。なんとかなるようにお母さんも一緒に考える。だから、逃げなくていい」


 空雄は母に抱き締められていた。どうしたらいいのか分からない、それはこの場にいる誰もが同じだった。だけど、母は冷静だった。


 焦る時ほど冷静でいなさい。それが母の口癖だった。自分の母親が非常時において冷静な判断を下せる人だとは知っていたが、こんな時に発揮されるとは思ってもいなかった。


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