第33話 撤退

 拳と爪が、高速で空を切った。空雄は今まで自分が勘違いしていたことに気付いた。流太は、流太たちは、何度も死んできた。数えきれないほど。そのたびに生き返り、戦い続けてきた。何度傷ついてきたのか、なんてレベルの話ではなかった。病気や事故で死ぬのとは違うのだ。肉体を切り刻まれて殺される。流太たちと出会ってからの日々がよみがえり、そんなことは口にもしなかった彼らの笑顔が浮かぶ。


 体が再生しようと、痛みは変わらない。空雄がこの世界に足を踏み入れる前から、流太たちは戦ってきた。自分よりも強い相手を前に、逃げることなく。


 死ぬのは怖い。誰だって苦しんで死にたくないと思うはずだ。彼らは、彼らだけは、違うというのか? そこまで考えて、


”最期に笑って死ねればそれでいい” 


 流太の言葉が浮かぶ。理想を聞いた時、そう純粋な目で答えた。どうしてそんなふうに言ったのか――何度も何度も、笑って、死ねなかったからじゃないのか? 空雄はずっと、流太を強い人だと思ってきた。自分には超えられない存在だと。近くにいるのに遠い存在だと。だけど、彼もずっと戦ってきた。超えられない壁を前に、勝利するためだけに。 


 彼らだから違う? 何を言っているんだ。そんなわけ、ないじゃないか。同じ痛みを感じ、悲しみ、苦しみ、喜び、救いを求める、ただの人間だ。


 空雄は拳を強く握った。全身に熱がこもり、拳の中にたまっていく引のエネルギー。風が起こり、白い光が両拳を覆っていく。


 さっきまで目の前の流太に向き合っていた道夫の視線が空雄に向いた。気のせいではない。やつは、照準をこちらに変えた。

 

 全ては一瞬のうちに起こった。


 道夫の体は流太の横を通り過ぎ、黒い爪先が空雄に矛先を向ける。流太は目で追ったが、すでに道夫は空雄の前に迫っていた。


 速い。数十メートルの距離を、こんなにも一瞬で。空雄は爪を受け止めようと、咄嗟に両腕を交差し防御の姿勢を取った。こんな時に、妙な既視感に襲われた。この構え、この腕の振り方、どこかで見たことがある。だからなのか、次にどんな攻撃がくるのか予測できた。


 だが、確かめるすべはなかった。黒い爪を、突如目の前に割って入った悟郎の右拳が受け止めていたからだ。悟郎の猫拳からあふれた真っ赤な光が視界を染め上げる。空雄はよろけた。


 切られた左腕をひもでしばってはいるが、血が止まる気配はない。それでもなお、悟郎は拳に赤い光をため動いていた。放たれた道夫の右爪は防いだ。しかし、すぐに左の爪が振り下ろされる。よけきれない。今の悟郎には受け止める腕がもう、ない。


 空雄は自分の拳を真っすぐ押し出した。自分にできることは、戦うこと。ところが、ざっと伸ばされた悟郎の左足に阻まれ、空雄は前に出られなかった。今の不利な状況でさえも、前に出るなというのか。いや、このまま振り切る。空雄が緩んだ拳を振り切ろうとした時、悟郎はひねった右拳で道夫の左腕にからみつき、そのまま体をよじった。道夫の体が地面から浮いた瞬間を、後方の流太は見逃さなかった。


 流太は地を蹴り、飛んだ。黒猫拳を振り下ろし、道夫の背中にねじ込む。土煙を上げ、視界が見えなくなった。隙のない連携。まともに戦えるはずもないと思っていた悟郎が、猫拳だけに頼らず道夫の隙を誘い出し、流太が猫拳で一撃を放った。こんな戦い、見たことがない。空雄はせき込み、静かになった辺りを見渡した。徐々に土煙が引いていく。うっすら開けた視界から流太の顔が見えた。


 空雄は駆け寄ろうとして息をのんだ。真っすぐ突き上げられた道夫の爪先が、流太の右胸を貫いていた。今、確かに流太の拳は道夫の背中を突いたはずなのに。いや、流太の右拳は――道夫の胸にあった。しかし、皮膚一枚突き破ってはいなかった。


 胸から、口から、大量の血を流す流太を前に、空雄は目を閉じられなかった。嫌な音を立てて爪が引き抜かれ、流太は空雄の目の前で崩れ落ちた。


 爪が目の前に迫っていたが、空雄は動けなかった。悟郎が空雄の前で爪を受け止め、足で道夫を引き離す。


「気を抜くな」


 悟郎の怒声に空雄は焦点を定めた。


「撤退する」


 そう言って、悟郎は動かない流太を担ぐと走りだした。空雄も後を追う。振り返ると、血に染まった爪をなめ、おぞましい目でこちらを見つめる道夫と目が合った。悟郎はセピア色の町を駆け続けた。その速さに空雄は追いつけず、数百メートル後ろを走っていた。


 やがて結界が解け、色が戻り、辺りは早送りするみたいに時が流れ始めた。そこでようやく、別空間という言葉の意味が理解できた。さっきまで空雄たちがいたのは、現実世界とは別の空間で、止まって見えた時間も、実際には進んでいた。閉鎖された空間と現実世界の間にある時差が、封鎖が解けた時生じたのだ。


 人目につかない道を走り抜け猫神社に着くと、鈴音と条作が3人を慌ただしく迎えた。流太は本殿で応急処置を受けたが、手の施しようがなかった。ろっ骨ごと、右の肺が切り裂かれていたのだ。午前0時まで4時間以上もある。体が再生するのを待っている間、流太がこの苦しみから解放されることはなかった。彼は、死んだのだ。


 初めて人が死ぬ瞬間を見た。空雄は外に出て、1人石段の上に力なく座った。がくりと頭を下げ、死んだ目で地面を見る。苦しく、全身が悔しさで奮い立った。


 ポケットの中にあったスマホが鳴った。


「あ! お兄ちゃん? もう、途中でいなくなっちゃうから心配したよ。今、どこにいるの? 流太さんと一緒?」


 空雄は喉の奥から漏れそうな嗚咽をこらえた。電話の向こうからは、花火が打ち上がる音やにぎやかな観客の声が聞こえる。


「お兄ちゃん?」


「一緒だよ」


「じゃあ、早く来てね。フィナーレ、始まっちゃうよ」


「ごめん、きょうは先に帰る」


「大丈夫?」


「……」


「分かった。無理、しないでね」


 スマホを切って、空雄は遅れて気付いた。涙が頰を伝っていた。


 言えなかった。


 流太が”死んだ”なんて。


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