第37話 責任を果たせ

 夏の終わりから秋にかけ、空雄は一日も家に帰らなかった。いや、帰りたがらなかったという方が正しい。空雄は花火大会の夜を境に家族と距離を置くようになった。小春たちに理由を話すことはなかったが、深く聞かず一人にさせてくれた。


 空雄は一心不乱、訓練に没頭していた。見回りがない日は朝から晩まで、見回りがある日は隙間の時間を、暇さえあれば有効に活用した。流太との対人訓練はもちろん、猫拳・片極拳の磨き上げ、瓦割り、竹や石段を使った跳躍練習、瞬発力と動体視力を鍛える独自のトレーニング。まさに幅広く思いつく限りのことをした。


 次にもし石井道夫が現れた時は、この拳でたたきのめす。空雄は闘志を燃やしていたが、再び道夫が現れることはなかった。それから2017年時点で町の猫が石にされたという報告は21件、いずれも現場で道夫の姿を目撃することはできなかった。その間、空雄は石にされた猫を回収することもあった。境内に猫の石像が増えるたびに、にゃんこ様の力は弱まっていく。鍛錬ばかりで道夫との接触がない日々。焦りと不安で精神的に追い込まれる日が続いた。


 そんな空雄を心配し、にゃんこ様は1カ月の休暇を与えた。その間、空雄は死んだように家で過ごした。流太が時々来てくれたが、やはり気は一時も休まらなかった。また、どこかで結界が閉鎖された時のことを考えると、石井道夫のことを忘れることはできない。


 3月。高校3年生となっていた同級生たちは卒業したが、進路先は小耳に挟む程度で詳しくは分からなかった。みんなが将来に向けて進んで行く中、自分だけが高校2年生の時から変わらない。


 この頃からだ。劣等感と同時に焦燥感が襲ったのは。それまでは、まだ同級生たちは同じレベルだと思っていたし、違いもそこまで感じていなかった。でも、卒業してこの町を離れ、社会人として働いたり、大学生活を始めたりした同級生の存在を考えると、痛烈な違いを思い知らされた。自分は明らかに周囲より劣っていて、みんなは社会の一員として優れている。そういう極端な考えがいけないのは分かっていたが、1人になるとよくそんなことを考えた。


 だから2018年を迎え、小春が卒業し県外へ進学した時はなんとも言えないさみしさが込み上げた。どうしてだろう、小春だけはいつも家にいて帰りを待っていてくれる気がした。妹だけは例外で、そばにいて見守ってくれると。


「またね、お兄ちゃん」


 小春はそう言って、別れ際いつもみたいに笑った。空雄は父と母、流太で電車に乗る小春を見送ったが、空雄は心底さみしくて笑えなかった。みんな、遠くへ行ってしまう。それぞれの人生があるのだから、仕方ないことなのに。


 いつになったら、自分はあっち側の世界に戻れるのか。小春がいなくなった町で空雄は考え続けた。


 7月に入ったある日、空雄はいつものように流太と夜の見回りに出ていた。町には数時間前に流太が可視化した千本結界の障壁が見えている。まだ人通りの多い午後8時、商店街を歩いていると流太が立ち止まった。そわそわと周囲を気にしている。


 2人の周囲で結界が突如波立ち、ぼわんぼわんと不規則な揺れになって広がった。緊張が走る。石井道夫が現れれば、結界を通して存在を知ることができる。揺れを見逃さず、結界封鎖で道夫を閉じ込める。それが、数少ない接触機会をものにする重要な初動対応の一つだった。


「流太さん! 早く追い掛けましょう」


 流太は動かなかった。様子がおかしい。早く揺れの元凶となっている場所まで行かなければいけないのに。空雄は作戦があるのかと思ったが、次に言い放たれた言葉は予想外のものだった。


「結界が――溶けていく」


 言葉通り、波立っていた結界の一部が青い光の粒となって溶けていた。結界が見えない周囲の人たちはいつも通り日常の中を歩いているが、この場にいる空雄と流太だけが異常な事態に気付いていた。


「神社に戻る」


 言うやいなや流太は走っていた。空雄は後を追い、人をかきわけて進んだ。


 境内に戻るなり、流太は迷わず本殿に入った。中ではろうそくの明かりが部屋をぼんやり照らしている。部屋の隅には膝を抱え目をつぶるにゃんこ様がいた。体はいつもより二回りも小さく、少女というより小さな女の子だった。彼女の周りを取り囲うように鈴音、条作、悟郎が寄り添っている。


「ふざけるな!」


 流太はいきなり声を荒げ、にゃんこ様が浮くほど強く首をつかんだ。一瞬にして場が凍り付き、誰もが突然の怒声に驚き固まっていた。にゃんこ様の細い首をつかんだ流太の手は怒りで震えていた。


「何もかも、中途半端に投げ出して、消えようってのか」


 流太は喉の奥から声を絞りだした。


「石井道夫を滅ぼせと言ったのはあんただ! なのに、どうしてこんなところで――」


 にゃんこ様の小さな手が透き通っていることに気付き、流太は眉根をピクリと動かした。手だけじゃない、よく見てみると全身が薄く透けている。存在自体がこの世界から消えていくみたいに。空雄は動揺したが、鈴音や条作、悟郎もこの状況に驚きを隠せないようだった。


「俺の目を見ろ! 猫善義王。責任を果たせ。こんなところで、くたばってんじゃない」


 流太の怒声が響く。にゃんこ様はうつろな目で見返した。

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