第26話 年越し

 大みそか。町は新年を迎えるための厳かな空気に包まれていた。空雄と流太は家に行く途中店に寄り買い物をした。流太は空雄の両親へ赤ワインにハム、空雄は年越しそばや小春が喜びそうなものを買った。


 家に帰った2人を出迎えたのは、テーブルを埋め尽くす豪勢な料理だった。オードブルにすし、魚介ピザ、煮物……奥山家の中では一年を通し、最もぜいたくな晩ご飯だった。


 流太が初めてこの家にやって来た夜のことを今も鮮明に覚えている。突然外から空雄の前に現れた猫戦士。自分の親指を誠意として切り落としたことには衝撃を受けたが、結果的に彼を信じて良かったと今は思える。流太も最初は隠しきれない警戒心をかもしていたが、空雄と家に帰る回数が増えるほどに、表情は柔らかくなっていった。


 流太にしてみれば、猫になった息子だけでなく、怪しい男を家に上げてともに食事をするなんて、よほど奇妙に映っただろう。


「それじゃあ、乾杯しよっか」


 母の一声で全員手元にあるグラスを持った。


「こうして、またみんなと一緒にご飯を食べることができて、お母さんはうれしいです。きょうは空雄に流太さんも、心ゆくまでゆっくりしていってね」


「体と心の健康が一番。よい新年を迎えられるよう――乾杯!」


 父の掛け声でグラスがコツンとぶつかり合う。


「母さん、こっちのオードブルは?」


「そっちは、空雄と流太さん専用のオードブル。猫ちゃんが食べられるもので手作りしたの。安心して食べてね」


 よく見ると、すしにも猫用があって、しゃりの部分がささみでできていた。


「全部作ったの?」


「そうだよ」


 母は笑顔で答えた。


 こんな手間のかかるものを? なんだか食べるのがもったいない。

「この卵焼きはね、小春が焼いてくれたの。こっちのおすしはお父さんがぜーんぶ握ってくれた。お母さんは、こっちのお魚ボールとカリカリのツナあえでしょ? それからこれは……」


 楽しそうに料理の説明をしてくれる母を見て、空雄は幸せな気分だった。隣の流太は見事な手料理に目を奪われ、パクパク食べながら舌鼓を打っている。和やかな夕食が終わった後は、みんなで紅白を見ながら居間でくつろいだ。空雄はもうおなかいっぱいでソファの上から動けなかった。そこへ母が隣に座り一緒にテレビをながめた。


「母さん、ありがとう。こんなに料理、作ってくれて。ごちそうさま、おいしかった」


 空雄の顔に母は両手を添えた。


「空雄の笑顔が見たくて、お母さん頑張っちゃった。空雄と比べたら、私たちの頑張りは小さいかもしれないけど」


「そんなことないよ」


 母はふと昔を思い出すみたいに視線を下げた。


「空雄が家を出ていった後、小春、大泣きしたの」


 空雄は驚いた。小春が泣いた姿なんて小学生の頃に何度か見たくらいだ。


 あの日の夜は、自分のことで精いっぱいだったから、そんなこと想像してもいなかった。小春は勝ち気で心の強いタイプだと思っていたから、なおさら信じられない思いだ。


「お兄ちゃんが行っちゃったって。もう二度と、戻らないんじゃないかって。あぁ見えて、小春は繊細で、お兄ちゃんのこと大好きだから。空雄も必死に頑張ってる。それはね、みんな知ってるよ。どんなささいなことでもね……誰かの笑顔が見たい。それだけで、人って頑張れるものなの」


 笑顔が見たい。空雄は目の前でほほ笑む母を見てぼんやり考えた。笑顔でいてほしい。だから頑張れる。確かにそういうものなのかもしれない。


 ふと隣の部屋を見ると、小春がピアノを弾いていた。そばには楽しそうに耳を澄ます流太の姿があった。そうか、この前猫屋敷でピアノを掃除していた理由はこれか。小春が来た時に、演奏を聞かせてもらったんだろう。空雄はその場面を見たわけではなかったが、なんとなく想像ついた。空雄はなんだかほほ笑ましい気持ちで2人の後ろ姿を見ていた。


「小春、最近流太さんのことばかり聞いてくるの」


「そうなの?」


「いつ家に来るのかって、うずうずして。懐かれちゃって、流太さんも大変だと思ってたんだけど、こうして見ると

年の離れた兄妹みたいね」


 確かに、流太の小春を見る目は保護者みたいに温かい。一方の小春は、思い返せば彼のそばにいる時はいつも口数が増える。なんていうか、もう大好き! っていう感情がだだもれな感じ。そういう意味では2人の間にはある種の温度差が感じられる。


 なにはともあれ、こうしてそれぞれくつろいでいる空間にいるのは幸せなことだった。何も深いことは考えなくていい。そばにいて、互いの存在を近くに感じる。たったそれだけなのに、温かい。


 午前0時になり、テレビの画面が鐘を突く映像に切り替わった。


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