第25話 昔の記憶

 母と小春が家に帰った後、流太は鼻歌を歌いながら1人ピアノの掃除をしていた。特に鍵盤部分を布で念入りに磨き上げていた。空雄は彼のそばに行って黄ばんだ鍵盤に驚いた。


「ピアノの掃除なんてらしくない」


「失礼なこと言うね、あんたも」


「ピアノなんて弾いたことないじゃないですか」


「俺は弾かない」


 なぜか得意げに言う流太。まぁ、小春だったら弾くかもしれないと空雄は思った。小春は小学生の頃からピアノ教室に週2回程度通っている。家にもピアノがあって、よく学校帰りに弾いているのを見るが、空雄は触ったことすらなかった。もちろん、掃除をしたことも。


「きょうも夕方から始めるんだろ」


「はい」


「俺も付き合う」


 そういえば、本殿の地下で麗羅を見て以降、空雄は彼にそのことを話していない。流太は石にされる前の麗羅を知っているはずだが、彼女はどんな人だったのだろう。ここ数日もやもやと考えていたことをきょう聞いてみようと思い、空雄は竹林に向かう途中で尋ねた。


「沢田麗羅さんって、どんな人だったんですか」


 流太は足を止めた。


「強い猫戦士だった」


 この時、流太はある場面を思い出していた。


 ――


 ――――


「もう、流太ったら聞いてるの?」


 流太は桜の木からずり落ちそうになった。振り返ると、むっすり頰を膨らませた麗羅が立っていた。季節は桜が満開の4月上旬。境内はうららかな春の陽気に包まれていた。


「きょうの見回り、あなたと私なんだから。忘れちゃったわけ?」


「はいはい」


「なに、そのやる気なさそうな返事は。もう、流太なんて知らないんだからね」


 流太は木から下り、プンプンして歩きだした麗羅の後を追った。


「あんたはいつも時間に律儀だな。実際、まだ勤務時間の15分前だ」


「現場には10分前集合なんだから、ちょうどに出たら間に合わないじゃない」


 ははっと流太は頭をかいた。2人は神社の石段を下りて鳥居をくぐった。見回りは基本的に2人一組で行うが、事情があって1人になるときもある。シフトを考えるのはにゃんこ様の役目で、流太と麗羅は一緒に組むことが多かった。そんな時、麗羅は決まって流太より2歩先を歩く。


「ねぇ」


 歩きながら麗羅が言う。


「どうして私が、あなたの前を歩くか知ってる?」


「さぁ」


 麗羅は黙って立ち止まった。今、どんな顔をしているのか見えなかったので、流太はからかってやろうと思い、追い越しざまに彼女の顔をのぞいた。ところが、なんと頰を赤く染めている。


「守りたいから」


 流太は思わず噴き出した。


「あぁ! もう! 人がせっかく真面目に言ってるのに、からかうなんてひどい! そんなにおかしい? 女の私が、あなたを守りたいなんて」


「いいや」


「じゃあどうして」


 流太は歩み寄ると麗羅を見た。 


「俺の方が、強いから」


 麗羅はいかり肩になった。


「確かに強いよ。みんなの中で――一番」


「なに? 最後、聞こえないなぁ」


 麗羅は流太をこづいた。


「ははっ」


 今度は流太が前を歩いた。


「わ、私だって! ちゃんと猫拳を使いこなせるようになったし、これでもあなたより多い枚数の瓦割れるんだから!」



「うん、確かに瓦割り職人だ」


 麗羅は小走りに前に出ると流太の手を強く引いた。


「行くよ! 私についてきなさい」


 一生懸命先導しようとする麗羅の手を、今度は流太が引いた。その勢いで彼女はバランスを崩し倒れた。ちょうど目の前を、荷車がものすごい速さで通り過ぎていった。


 麗羅は流太の上に重なり、顔と顔があと数センチというところで止まっていた。お互いの鼓動が聞こえるほど近い距離で、2人はしばらく見つめ合っていた。麗羅は咄嗟に起き上がると着物をほろい顔を赤くした。


「あ、ありがとう」


 自分から守ると言っておいて、さっそく守られていることに気付いたのか、麗羅の顔にはいろんな羞恥心が浮かんでいた。


「あんたは真面目過ぎるんだ」


 流太は立ち上がって言った。


「誰が一番強いとか、正直どうでもいい。大切な人を、助けられたらそれでいい。どっちが上でも下でもない」


「流太ってさ、時々ふざけてるのか真面目なのか、分からなくなる時あるよね。いつも私のことからかうし。かと思えば、今みたいにまともなこと言うんだから」


「真面目一辺倒はつまらない。それに、からかいがいがあるやつは、見ていて楽しい」


「うわっ、最低!」


「でも、さっきのは冗談じゃない」


 流太は視線を合わせず、けれども誠実な色をたたえた目で言った。


「流太の……大切な人って?」


 麗羅は言ってから慌てて歩きだした。「うんん、なんでもない。早く行――」


 麗羅は言いかけた言葉を失った。重ねられた唇で息ができなかったからだ。穏やかな風が2人の間を駆け抜ける。殺風景な原風景にただ一つ、2人のシルエットだけが浮かんでいた。


 ――


 ――――


「流太さん?」


 流太の前で空雄は手を振っていた。


「見えてる」


「だって、話の途中で浮かない顔するから」


「どこまで話したっけ?」


「しっかり者だけど、実は天然、ってところまで」


 それにしても、流太から麗羅の話を聞いた時は、少し意外だと思った。彼自身の口から第三者の特徴を語られることもそうだが、何より話していて楽しそうだった。


「にゃんこ様か条作に聞かされたみたいだね。地下室にも?」


 一瞬流太の声が沈んだのを空雄は聞き逃さなかった。そうだよな、かつて一緒に過ごした仲間が石になったなんて、気軽に言いたくないよな。ましてや知り合ったばかりの猫戦士に。


 麗羅は石井道夫に石にされた。当然、空雄はその当時何が起こったのかを知らないが、今は踏み込んだことを聞く気にはなれなかった。


 猫戦士になって初めて迎えた年越し。年末年始くらい実家で過ごしたかったが、流太のシフトの都合上家にいられるのは3日だけだった。それでもうれしいことに変わりはない。空雄は日々の訓練をこの3日だけは忘れ、思う存分羽を伸ばそうと決めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る