第30話 最期に笑って死ねれば、それでいい

 空雄は流太と町に出て、現場で悟郎と交代した。流太に地図を持って歩くよう言われ、2人は位置を確認しながら歩いた。当然知り尽くしている場所もあったが、まったく知らない場所もあった。何も考えずに歩くのと、猫がいそうな所を意識して歩くのとではぜんぜん違う。視点が異なることで、まったく別の町を見ている気分になる。


 流太が言った通り、赤い丸がついている地域には猫が多かった。人に飼われている猫もいれば野良猫もいる。石井道夫の標的となる病気やけがをした猫はいなかったが、年老いた猫はたくさんいた。道夫が現れるとしたら、いつ、どんな時なのか。空雄は様々なパターンを巡らせながら歩いた。


 交代の午前2時前、流太は空雄をある場所に連れていった。猫神社とは正反対の位置にある森で、建物も街灯もない所だ。当然こんな時間に人はいないので、空雄はフードで耳を隠す必要もなかった。なぜか流太に目を閉じてと言われたので、空雄は目を閉じて待っていた。


「いいよ」


 空雄は目を開けた。


 可視化された結界が重なり合い、町の真上に巨大な結界の鳥居を浮かび上がらせていた。なんて神秘的できれいなのか。透き通った結界は手を伸ばせば届きそうだ。


「結界の鳥居が見られるのは、この位置からだけだ」


 町の上に巨大な結界の鳥居があったなんて。空雄は自分の家がある方向を見ながら感心していた。


「この町にいる人の目には見えない結界を、今俺たちだけが見ている。そう考えると、案外悪くない」


 流太は目を細めながら言った。


「世の中には、知らない方がいいこともある。けど、知ってよかったと思えることもある。例えばこの景色みたいに。よく白黒つけたがる人がいるけど、実際、割り切れないことの方が多いものだ。例えば幸せか不幸か、なんて。たいていの人は、どこかで折り合いをつけて生きている。理想と欲は際限がないからね」


「流太さんはあるんですか? 理想」


「俺?」


 流太は少し含みを持たせて口を開いた。


「終わりが良ければすべてよし、かな」


 流太は本当に純粋な目で町を見ていた。


「最期に笑って死ねれば、それでいい」


 意外な言葉だった。空雄は死に対するイメージが極めて暗いものしかなかった。死ぬのは悲しい。つらい。苦しいかもしれない。笑って死ぬなんてことは考えもしなかったし、ましてやそれを平然と理想に並べ立てることもしたことはない。今の自分は、約束も果たせていない。何も成し遂げていない。要するに、何者でもない。だから空雄は思った。笑って死ぬのは難しいことだと。


 猫戦士は通常の死には疎い存在だが、それでも自分の死を考えることはある。こんな話をしたということは、流太も同じなのだろう。


 巨大な結界の鳥居を見てからというもの、物事の見方が少しだけ変わった気がする。見えないものは確かに存在する。でも、知らずに生きている人の方が大半だ。自分こそ無縁だった側だが、縁ある立場となった。自分たちを猫戦士にしたも同然のにゃんこ様には言いたいことがたくさんあったが、それでもあの結界の鳥居を見た後では、また別の角度から猫の神様という存在が見えた気がした。


 にゃんこ様は、千本の結界を途切れさせることなくこの町に張り巡らせてきた。全ては石井道夫を滅ぼすために。いつだったか流太が言っていた。


”彼女をあわれだと思うよ”


 いったい、どうしたら誰一人苦しまなくて済んだのか。あの小さな背中を思い出すほどに胸は苦しくなる。とはいえ、たかだか十数年しか生きていない空雄には想像もつかないことだった。事の発端というものが、どんなものかを。


 8月下旬、空雄は流太と家に向かっていた。この日の出番は悟郎1人で、2人のシフトは1日後だった。町では花火大会があるらしく、商店街には人だかりができていた。こんな所にも出店が並んでおり、道行く人はどこか浮かれた顔をしていた。空雄はフードを目深にかぶり、髪色と耳が目立たないよういつもみたいに警戒して歩いていた。


「打ち上げは7時らしいですよ。小春は見に行きたいって。流太さんも一緒に行きませんか?」 


 流太は少し黙り、さっぱりした口調で「いいよ」と答えてくれた。


 家に着くと浴衣姿の小春が出迎えた。紺色の生地に椿が映える生地に、おそろいで椿の髪飾りを着けていた。唇に

紅をさし、いつもより数段大人びて見えた。


「お兄ちゃん、来てくれたんだ。流太さんも、こんばんは」


「小春、流太さんも一緒に行ってくれるって」


「やった!」


 小春は無邪気に笑った。今度は母がやってきた。


「一緒に行ってもいいけど、お兄ちゃんの猫耳としっぽ、周りの人にばれないようにしないとね」


「大丈夫。だって流太さんがいるんだもん」


 相変わらず小春の流太に対する信頼度は絶大だ。会うたびに流太流太なので兄としてはほんの少し嫉妬するけど、空雄だって流太のことは信頼している。ただ一つ心配なのは、母も言った通り周囲に猫戦士であることがばれることだ。フードで隠せるとはいえ、白髪は目立つし顔自体はほぼ空雄のままだ。同級生と遭遇すればすぐに勘づかれるだろう。


「はいっ! これ、お兄ちゃんに」


 小春に渡されたのは不織布マスクだった。


「サングラスもあるよ」


「余計に怪しまれる」


 空雄は鏡の前に立ってマスクを着けた。顔の全体を覆えば誰だかよく分からない。不自然ではないし、確かにいいアイテムだ。

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