第2話

「初めまして。セイファー・オリアスと申します」

 ドアの前に立っている髪はモスグリーン瞳はシトラスである男の人はそう名乗った。そういえばゲームでも画面の端っこのほうに居たような居なかったような。所謂『モブ』という立場だったような気がする。でもこの世界は今の私にとってはしっかりとした現実で、彼も個を表す名前を持っていて当たり前なのだ。如何にも研究者と言わんばかりに眼鏡にローブ姿の彼は人当たりのいい笑顔で軽くお辞儀をした。

 数日前セバスチャンに勢いで頼み込んだせいか、該当する人物を探すのに時間がかかるかもしれないと言われたけれどそれでも構わないと言ったときの驚きようといったら。確かに今までの私は短気すぎて数時間待たされるだけですぐに怒っていたけれど。今の私はそんな簡単に癇癪を起こすことはない。

 っていうかセバスチャン、前世を思い出してからずっと思っていたけれどセバスチャン。執事だからと言って如何にもな名前を付けたわね制作会社も。

「初めまして。ソフィア・エミーリア・フォルネウスと申します」

 淑女らしくスカートを軽く摘んで挨拶をする。客人の少し後ろに控えていたセバスチャンがまた目を丸くした。

「セバスチャン、お客様に温かい飲み物を」

「……! かしこまりました」

「どうぞ席にお座り下さい」

「あ、はい。失礼しますね」

 対面にある椅子に座ってもらって、そしてすぐにセバスチャンが温かい飲み物を私たちの前に置いてくれる。礼を言えば先程までとは言わないけれど軽く目を見張った。けれどそれもすぐに打ち消して軽くお辞儀をするとスッと私たちから距離を取る。

「セバスチャン、もういいわ。しばらく席を外していてちょうだい」

「かしこまりました。ではごゆっくり」

 パタンと音を立ててセバスチャンは退室。この場には私と彼だけで、そんな彼はというと穏やかな表情をしているようでほんの少しだけ目が泳いでいる。そうよね、いきなり令嬢から呼び出しだなんて驚かないほうが無理だ。ひとまず飲み物をとティーカップに口を付けたところで「あの」と声を掛けられた。

「植物学を学びたい、とのことでしたが」

「ええ、そうなのです。でもその前に……お話したいことがあって。私、数日前に頭を強打してるんです」

「……えっ、あ、そうなんですか?」

「ええ……それこそ物事の考え方が一変するぐらい。頭を打つ前の私はそれはもうやりたい放題、癇癪を起こすしメイドはクビにするしと酷い女でした」

「えっと……噂は、聞き存じております」

 確か彼は魔法省務めだったはず。やだ社交界だけに留まらずそんなところにまで私の噂が知れ渡っているなんて、流石『悪役令嬢』と言うしかないじゃない。

 コホン、とひとつ咳払いをしてもう一度カップに口を付け喉を潤す。悪名にショックを受けている場合じゃない。

「頭を打ったショックで、今まで普通だと思っていたことに対してそれがどれほどありがたかったことなのか、そう思えることができたのです。例えば食事。普通に食べていたお肉や野菜は誰かが育てそして調理してくれたからこそ私は何もせずに食べることができた。お恥ずかしい話ですが、人の苦労を今まで何ひとつ知ろうとはしなかったのです」

 ソフィアは本当に、そんなことまったく思いもしなかっただろう。目の前に出されて当然、温かくて当然、嫌いだから食べないなんてこと普通に許されることだと思っていた。

 けれど前世の記憶が蘇った私にとってそれがどれだけありがたいことか。最後辺りはろくに食事を取ることもできず、冷たい食事にありがたいけれどどこかひとつ物足りなさを感じる栄養補助食品。一日一食食べられたらいいほうで、今はその記憶があるからソフィアの贅沢っぷりには寧ろ腹立たしさを覚えるぐらいだ。

「そんな自分を改まりたい。そう思いあなたをお呼びしたいんです。植物光化学を研究しているんですよね?」

「ええ、その通りです」

「実はですね……私、自分で農作物を育ててみたいんです!」

 この世界の野菜は実は低価格で簡単に手に入る。それは野菜はすべて魔法で育てる、そういう技術が発展しているからだ。何十年前にはそれこそ野を耕し人の手で種を植え人の手で収穫。けれど天候に左右されやすく不作が続くときなどもあった。けれど今の技術、魔法でそれらすべて管理できる。屋外ではなく環境の整った屋内に。水やりも魔法で日照が必要であればそれも魔法。天気に左右されることもなくなり不作に陥ることもなくなった。だからこの世界にはもう『農家』という職業はない。

 なので。今時「農作業をしたい」と言う人間はいないのだ。

 さてこれが吉と出るか凶と出るか。目の前にいる彼は野菜を育てている魔法省の人間だ。今時そんな野菜を育てたいなんて言う人間がいるのかと呆れるのか、それとも愚かなことだと溜息をつくか。

「……素晴らしい考えです!」

 けれど返ってきた言葉は想像していたものではなく、表情だってそのどちらでもなく寧ろ目をキラキラと輝かせている。

「今時土をいじりたいという人間はいません。けれどあなたは人々のありがたさをその農作業を通じて知ろうとしている。立派な考えです、素晴らしい!」

「そ、そうですの……?」

「えぇ、えぇ! 実は私も魔法を使わず自分の手で野菜を育ててみたいと思っていまして……それを同僚に正直に話せば鼻で笑われました」

「まぁ。別に鼻で笑わなくても……だって数十年前はそれが主流だったのに」

「苦労をしてまで、ということでしょう。もちろんその考えもわかります。誰だって便利さが一番ですから」

 興奮して少し大声で話したせいか、彼はひとつ咳払いをしてそしてようやく飲み物に口を付けた。美味しい、と零れた言葉に笑顔で頷く。このお茶だって茶葉を育てる人がいて加工する人がいて、そして美味しく淹れてくれる人がいるからこんなにも温かく美味しいものになる。

「私を呼んだのは野菜の育て方を教えてもらうためですか?」

「ええ、その通りです」

「わかりました。私でよければ私の知っているノウハウをあなたにお教えします。本当に……嬉しいです、まさかこんなところで同じ気持ちを持っていらっしゃる方がいるとは……」

「では今後あなたのことを『先生』とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「はは……少しお恥ずかしいですが」

「ふふっ、先生」

 ギュッと先生の手を握る。魔法省務めだからかその手は節くれ立ってはいないしタコなんて何ひとつない、綺麗な手だ。こんな綺麗な手を汚してでも彼は土いじりがしたかったのだろう。

「私たち、これからは同じ想いを共にする『同志』ですわ。何かあればなんでも言ってくださいな」

 愚痴だってなんでも聞きますわ、と付け足せば「ではお願いします」と気後れすることなく、少し苦笑しながらも彼はそう言った。

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