彼女は授ける

 馬車移動ではなく徒歩移動になってからどれほど経っただろうか。最初こそあの坂を息切れして今にも倒れそうにしていた令嬢が、今では逸る気持ちを抑えきれずその坂を走って登っている。ここに来るときは翻るスカートではなくなった、自身を美しく魅せるヒールでもなくなった。丈夫な布を纏い、しっかりとした底のあるブーツで向かう先は彼女を最も笑顔にさせる人物がいる。

「エリーお姉様~!」

「相変わらず元気ね」

 畑から顔を出したエリー嬢にシャルル様は汚れることも厭わずに駆け寄る。エリー嬢もなるべくシャルル様が汚れないようにと立ち上がり僅かに畑から離れ整備されている道へと移動してくれる。シャルル様はいつものように笑顔で喜びを伝え、彼女もまくし立てるお喋りに顔を引き攣らせながらもそれでもそのお喋りに耳を傾けてくれていた。

「さ、シャルル。お喋りはそこまでよ。今日はやることがあったでしょう?」

「そうでしたわ! 今日はお願い致しますエリーお姉様!」

「……私は花嫁修業の手伝いをしている気分よ」

 そう、ふたりの言う「やること」というものは、シャルル様のお料理教室だ。ここへ何度かお邪魔してその都度果敢に料理に挑戦しているが、包丁を扱うシャルル様に一体何度ハラハラさせられたものか。エリー嬢もそんな俺の心情に気付いて付きっきりで指導してくれているものの、成長があまり思わしくない。恐らくシャルル様はそちらの分野はあまり向いていないのだ。それでも、せめて一品だけでも自分の手で作ってみたいという目標の元、エリー嬢はそれに付き合ってくれている。

「ドミニク、申し訳ないのだけれど野菜を洗ってきてもらっていいかしら?」

「お安いご用です」

 寧ろシャルル様に付き合ってくれているお礼だ。率先して力仕事をするようにはしているし、そのぐらいの頼みならどうということはない。カゴいっぱいの収穫されたばかりの野菜を受け取りいつの間にか出来上がっていた貯水所へと向かう。どうやら水路を引いたらしい。言ってくれれば手伝ったものの、エリー嬢とセイファー殿ふたりで力仕事をしたと思うと苦笑を禁じ得ない。令嬢と魔術師が力仕事だ、他の騎士たちが聞いたらきっと驚くだろう。

 少し歩けば目的の場所が見えたが、どうやら先客がいる。一体誰の後ろ姿だろうかと首を傾げながら近付けば、見覚えのある髪につい笑みを浮かべた。

「なんだ、お前も来ていたのか。ルクハルト」

「っ……! あ、ドミニクさん」

 第二部隊団長の息子であるルクハルトだ。何やら布の洗い物をしているようだが、なぜ彼がここに? と口にする前にルクハルトが口を開くほうが早かった。

「ドミニクさんはなぜここに?」

「ああ、シャルル様の付き添いだ。そういうルクハルトはどうした? めずらしいじゃないか、庶民階層にいるなんて」

 今までエリー嬢とセイファー殿との接点はないように思えたが。そういえばオスクリタ侵入の際同行している騎士がいたと聞いたがもしやそれがルクハルトだったか。オロバス様はあんなことを言っていたが恐らくエリー嬢とルクハルトの相性は悪い。オスクリタのときは同行したとはいえそのあと関係が続いているとは思わなかった。しかも洗い物の手伝いもしている。

 一体彼の中で何かあったんだろうな、と内心笑いながら彼の手元に視線を向ければハッとしバツの悪そうな顔をした。

「……父の、使いで。ついでに手伝わされています……」

「そうなのか」

 いつものお前ならきっと顔を顰めて断るだろうにな、と言葉にはせず隣に腰を下ろし俺も同じように野菜を洗い始める。オロバス様は気にはしていなかったが、ルクハルトは最近父親に対していい感情を持っていなかったように思ったが。どうやら雪解けがあったらしい。黙々と洗うルクハルトの様子をちらりと横目で見て、そして笑みを浮かべた。

「前にも増して訓練に没頭しているらしいな」

「はい。俺はまだまだなのだと、思うところが数多くあったので」

「そうか。精進するのはいいことだ。だが無理はするなよ?」

「はい」

「聖女様のほうはどうだ?」

 前に城で見かけたとき、聖女に対するルクハルトの視線に気付いてはいた。だがわざわざ口にするのも野暮だろう、だから他愛のない会話のように切り出す。気を許した相手には意外にも感情が表に出るルクハルトのことだから少しは動揺するかと思ったが。

「アリスも以前よりも断然勉学に励んでいます。彼女にも思うところがあったのでしょう」

 おっと、と軽く目を見張り首を傾げる。思った反応ではなかった。少しでもその顔を赤らめるかと思いきやそのようなこと一切なく、淡々と返してきた。しかも純粋に無理をしないか心配している目をしている。

「エリオットが傍にいるので、無理はしないとは思いますが」

「……そうか」

 しかも彼女のことを完璧に王子に任せているような口振りだ。確かにふたりのことを見たことがある人間からして、お互いどう想っているかすぐに勘付いてしまうものではあった。だからこそルクハルトのことをほんの少し不憫には思っていたんだが、どうやらそれも杞憂で終わりそうだ。

 本当に彼の中でかなりの心境の変化があったのだろう。前まで自身を追い詰めるような表情をしていたが、まるで憑き物が落ちたかのようにすっきりとしたものに変わっている。表情も柔らかくなったしどこか意固地だった部分も僅かに消えている。いい出会いがあったのか、いい環境の変化があったのか。

 お互い洗い物も終えたためふたり並んで家へと向かう。その間近状の報告のようなものになってしまったがお互いそれはもう職業病のようなものだ。情報交換は騎士にとっては重要なもので、それによって魔物の出現場所の変化など知りそれに伴った配置換えなどを決めることも多々ある。

「近辺の出現率は低くなっているようです」

「そうみたいだな。前のように急激に数が増えることはなくなっ……」

「指を曲げなさいって言ったでしょう?!」

「きゃーっごめんなさいお姉様ー!」

 会話の途中に飛び込んできた叫び声に近い声に思わず視線を向ける。どうやら今日は外での料理教室だったらしい。外に設置されているテーブルにシャルル様とエリー嬢の姿が見える。と、そういえばそうだった。以前家の中で調理したときシャルル様が切っていた野菜の暴れっぷりが見事でキッチンがとんでもないことになったのだった。しっかりと手で押さえていなかったため切る度に野菜があちこちに飛んでしまうのだ。

 それを踏まえての野外か、と思っている俺の隣でルクハルトが固まっている。令嬢の料理の腕前に驚いてしまったんだろう。

「どうして指を伸ばすのよ! それで指を切るって何回も言っているでしょう?!」

「そうでしたわね! 猫の手ですわね、お姉様!」

「そう! 猫の手! お願いだから指を曲げて!」

「にゃーですわね!」

「そう! にゃーなの!」

 何やら可愛らしい会話になっている。猫の手、と言いながらふたりとも自分の手を猫の手にしているものだからまるで猫二匹だ。しかもシャルル様は一回包丁を下ろす度に「にゃー!」と言っているのだから微笑ましい。そんなシャルル様につられてエリー嬢の語彙力も低下してしまっているが。

 と、俺は微笑ましく見れているが流石にルクハルトは引いているかもしれない。そもそも令嬢が自分で料理、というところで驚きがあっただろうしそもそも包丁さえもまともに扱えない。自身が完璧を目指している身としてもしかして苛立っているかもな、とそれとなく様子を見てみたんだが。

「ルクハルト?」

 声を掛けてみたが反応がない。そんなルクハルトの視線はにゃーと言いながら切っているシャルル様ではなく、その隣でハラハラしているエリー嬢で止まっていた。

 おっと、これは。もしやこれは、もしかするとしれない。

 今まで周りにいないタイプの女性だったのだろう。ルクハルトは魔物討伐に出ているとはいえまだパーティーの警護などに就いていることが多い。社交界の女性をずっと見ていて彼の中で女性に対しての固定概念が出来上がっていたのかもしれない。が、シャルル様も、もちろんエリー嬢もそこから外れている。

 しかし水と油の存在かと思いきやそうではなかったようだ。上手い具合に反応を起こしてくれてそれがいい方向へと向いた。ただ、エリー嬢かと苦笑を漏らしてしまう。

 ふたりを見ていると家の中からセイファー殿が出てきた。鍋を手に持ってふたりの様子を窺っている。シャルル様が野菜を切り終えるにはまだまだ時間が掛かるだろうに、ふたりは決して急がせることなどなく寧ろ見守っている。そしてふと視線を合わせ、微笑み合うのだ。

 まさに前途多難だ。それでも心境の変化のあった後輩を見守りたくなる。成長しようとしているところを誰が止めるだろうか。まだ視線を逸らさないルクハルトの背中をポンと叩いてやる。

「頑張れよ、ルクハルト。俺は応援しているよ」

「え……? っ……!! ま、待ってください俺は別にそういうわけではっ……!」

「そうかそうか、オロバス様が喜びそうだ」

「親父には絶対に言わないでくださいよッ!!」

 当人、普段気を付けているが同じ血が通っているのだ、ふとした拍子に少し乱暴な言葉遣いにもなってしまう。いつもなら「父」と言うのに動揺してしまうと「親父」になるのがいい証拠だ。

「エリー嬢、洗ってきました」

「ありがとうドミニク。あら、ルクハルトと一緒だったの?」

「ええ」

 洗ってきた野菜の入ったカゴをエリー嬢に手渡す。それなりの重さがあったのに彼女はそれをひょいと持ち上げてテーブルに置いた。

「ルクハルトも、洗い物ありがとう」

「……別に、大したことじゃない」

 いつもなら背筋を伸ばししっかりと相手と視線を合わせるのに、視線を外しぶっきらぼうな物言いでズイとエリー嬢に洗い物を渡している。初々しい反応にこちらは笑ってしまうのだが、普段のルクハルトを知らないエリー嬢は笑顔なれど米神を小さく引き攣らせていた。

「……それに、女の身でこんなに重いものをひょいひょい持つな」

 訳すると「女性ならばこんな重い物は男に任せろ」とそう言いたかったのだろうけれど。その物言いだと恐らくそのまま伝わってしまう。

 ピクク、と更に米神を引き攣らせたエリー嬢だが笑顔を絶やさないのは流石だ。というよりも、逆にその笑顔が恐ろしい。

「まぁ。女性だってこれぐらい持てるわよ? 市場のほうに行ってみなさいな、あなた驚いて腰抜かすかもしれないわね」

「俺が腰を抜かすわけないだろう」

「ちょっと、手を離してくれる?」

「離した瞬間落とすんじゃないか?」

「落とすわけないでしょういつも持ってる重さよ」

 訳すると「俺が指定されたところに持っていく」というところだろうが。まったくと言っていいほど伝わっていない。寧ろ売り言葉に買い言葉。ふたりの間に流れている雰囲気がどんどん険悪なものに変わっていく。初々しい反応だと最初は思ったがこれはもう初々しいというよりも拗らせていると言っていい。

 今まで見てきた女性が貴族の令嬢で、そして騎士のため周りは男だらけ。つまりルクハルトは女性の扱いに慣れていないのだ。

 流石に助け舟を出そうか、と苦笑しながら口を開けようとしたが同様に俺と同じ反応をしている人物と目が合った。セイファー殿も見守っていたようだがふたりの性格を知っていてか、流石に止めたほうがいいと思ったのだろう。目が合いお互い軽く苦笑を漏らし、俺は肩を軽く上げながら止めようとルクハルトに手を伸ばす。

「きゃーっ?!」

「指を切ったの野菜を飛ばしたの?!」

「ごめんなさいお姉様野菜を飛ばしてしまいましたわー!」

「もう! 一体何回目よ!」

 だがタイミングよく、シャルル様が切っていた野菜が暴れた。どうやら猫の手にしていたにも関わらず関節部分を切りそうになり、思わず手を離してしまったようだ。勢いよく切り下ろされたと同時に支えていた手がなくなった、そして野菜が飛んだ。そういうことだ。

 なんというか、とても賑やかで穏やかな時間だ。この中で誰も苦しい表情もつらい表情もしておらず、穏やかに過ごしている。シャルル様の見守りに戻ったエリー嬢に変わってセイファー殿がルクハルトから洗い物を受け取り、やや引き摺りながら家の中へ持っていく。

「ルクハルト」

「……何でしょうか」

 取りあえず先輩としてできるアドバイスをひとつ。

「お前はもう少し素直になったほうがいいぞ」

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