第3話
「お嬢様、ティーをお持ちしました」
「ありがとう。そこに置いておいてくれる?」
「かしこまりました」
机に向かってひたすらペンを走らせている私にセバスチャンはまったく邪魔をすることなく、絶妙な位置にティーカップを置いてくれる。
先生が私の所謂『家庭教師』となってくれたからと言って、現状彼は魔法省務め。そう毎日ここに来れるわけでもない。そんな先生が来れない間、初対面の次の日にもらった教材で私はひたすら勉強をしていた。前世会社員だったからといって農作業やそれに関わることについてはまったくの無知だ。強くてニューゲームなんてものはない。本当に初心者からのスタート。
いい環境に野菜によって変わる肥料。まったくわからない。まずはそこを覚えるところから。先生が来たとき少しでもスムーズに授業が進むための予習だ。
いつの間にかセバスチャンは退室していて、ドアの音まったくしなかったと驚きながらも淹れてくれたティーに口をつける。相変わらず美味しい。きっと私好みに淹れてくれたのだと、執事長たらしめる仕事ぶりに関心するしかない。ああいう人が上司にいれば社畜も少しは減るのだろうけれど。
「さて、と」
ある程度進めると両腕を上げて背筋を伸ばす。机である程度勉強をすれば、次にやることがあった。
今後のことを考えて筋トレをする必要がある。それこそ初めはもうびっくりするしかなかった。ここにある椅子を持ち運ぼうとしただけで腕がプルプル震えるのだから。
「なんて貧弱な
思わず叫びたくなるくらい何も持てない筋力。本当に箸以上に重い物は持てないのかと思うほど。どこのお嬢様だろうか。いや現にお嬢様だった。
それに癇癪持ちの令嬢は社交界に顔を出すことも徐々に減っていって、屋敷の外に出ることも少なくなっていた。つまりは、体力すらもないのだ。そこの廊下を少し走っただけで息切れ。本当にこのままだと部屋から一歩も出れなくなる、そんな身体の作りをしていた。
ということで。筋トレとランニングを今後のスケジュールに練り込ませる。腕立て伏せした次の日なんて筋肉痛が激しすぎてナイフとフォークすら持てなかった。あまりにもガチャンガチャンと床に落とすものだから、セバスチャンがめずらしく血相を変えて部屋に飛び込んできたっけ。
今もまだ筋肉痛は続いているけれど初日よりはだいぶマシになってきた。引き続き誰も近寄らない無駄に広い庭を走って、軽く素振りのようなこともして筋肉、体力作りに励む。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか」
「何かしら、セバスチャン」
前もって張っていた湯船に浸かり、汗を流したあとに身なりを整えているとドアの向こうからセバスチャンの声が聞こえた。ちなみに湯船を張ることも浸かりながら髪や肌のお手入れをするのもメイドのやることなのだけれど、この離れには私ひとりしかいないので。それもこれも全部自分でするしかない。
タオルで髪の水分を吸い取りながら人前に出ても恥ずかしくない格好になった頃、タイミングよくセバスチャンはドアを開けた。
「お嬢様、招待状が届いておりますが」
「そう。不参加で」
「ですが、お嬢様……」
度々義務付けのように送られてくるパーティーへの招待状。前の私でも乗り気ではなかったのに前世の記憶を戻してから尚更その必要性を感じなくなった。
「今更出席したところでただの面白い噂の種になるだけでしょ。それに……キャロルはもうデビューしているの?」
「はい、つい先日」
「そしたらあの子に任せるわ」
キャロルとはソフィアの一歳下の妹、キャロル・アレット・フォルネウス。ふわゆるの淡いピンクの髪に澄んだ綺麗なシアンの瞳を持っている。私と違って愛嬌のある顔で誰からも愛されるような子だった。
とは言っても私の記憶にあるキャロルのイメージだけれど。実際あの子と最後に会ったのは六歳ぐらいの頃。それ以降はもう私はこの別棟にいたからあの子がどんな生活をいているのかだなんてまったくわからない。唯一知っていることいえば、両親は大層あの子のことを可愛がっているということ。
それと、キャロルはゲームの世界で処刑まっしぐらのソフィアと違って恵まれた立場だった。その愛らしい容姿に穏やかな性格で最終的にはヒロインの親友ポジションに収まるほどだ。
「今後一切、パーティーには出席しないわ。それに……」
「ああ……然様で、ございますね」
お互いちらりとクローゼットに視線を向ける。毎日筋肉痛に苦しみながらも少しずつトレーニングをやっているおかげで、あれなのだ、成長期も相まってあれなのだ……クローゼットに収納されているドレスのサイズが、若干小さいのだ。主に、肩とか腕とか。
「かしこまりました。では今後招待状が来たとしてもこちらで処分致しましょう」
「ええ、お願い」
セバスチャンのいいところは仕事に私情を挟まないこと。私が否と言えばその通りに動いてくれる、本当に無駄のない優秀な執事なのだ。彼はそのまま一礼してスッと部屋から出て行く。
今更社交界だなんて。私の今後の計画に一切必要のない無駄なものだ。それよりも、今は先生に渡された教材で勉強をするほうが優先的。例え私ひとりがパーティーに出席しなかったところで周りの貴族たちはただ面白いものがなくなった、と思うだけ。どうせ数日すればその存在がなかったかのようにまた別の噂に飛びつくに違いない。
そうして鬱陶しかった招待状は一切私の元へ届かなくなり、尚更集中して勉強をすることができた。毎日黙々と机に向かい庭でトレーニングをする日々を過ごす。今も机に向かっているところトントンとドアを軽くノックされ顔を上げた。待ちに待った来客だ。
「すみませんお嬢様、なかなか来れなくて」
「いいえいいのよ先生。魔法省のお仕事もしているんだから」
「正直お嬢様に色々と教えているほうが楽しいんですが」
だから以前と比べて若干仕事に身が入らないんです、と苦笑する先生にこちらも自然と笑みが浮かぶ。そんな先生には早速勉強机のほうへと移動してもらって、取りあえずここまで予習はしておいたとの報告をした。
ちなみに彼には私の先生なのだから敬語でなくてもいいと言ったのに、地位は私のほうが上だからと断られてしまった。逆に私は畏まった言葉遣いは改めてほしいと言われ、こちらが砕けた言葉遣いになってしまったのだけれど。
「もうここまで……根を詰め過ぎてはいませんか?」
「大丈夫よ。確かに覚えることは大変だけれど……今は色々と知ることが楽しいの」
「そうですか……でも無理は禁物ですよ。では、復習がてらこの辺りからやっていきましょう」
私の対面に座ってくれて、教材の内容を補足するように先生はより詳しくわかりやすく私に説明をしてくれる。こうやって誰かに物を教えたことはないと言っていたけれど、それにしても彼の説明はわかりやすい。セバスチャンもそうだけれど先生も上司に欲しいくらいだ。もしかしてこの世界の人たちは基本的に優秀なのだろうか。
勉強の合間にセバスチャンが温かい飲み物を持ってきてくれて、先生と一緒にお礼を言って再び勉強を再開する。必要なところをメモするようにサラサラと書き足していると「そうだ」という言葉が聞こえた。
「ある程度覚えたら実践してみましょう。初めは簡単なものから。準備はこちらでするので」
「私のほうでも必要なものがあれば準備するけれど」
「では動きやすい服装を。手なども汚れてしまいますが……大丈夫ですか?」
「もちろんよ! 土いじりは汚れて当然じゃない?」
「ふふっ、そうですね」
ではそのときが来たら持ってきますねと笑顔で告げる先生に、こちらも笑顔で勢いよく頭を縦に振った。
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