3 見えている沼に足を取られるな

 空は厚い雲に覆われており、昼間だというのに教室内よりも暗かった。


 中庭に移動すると、ながめは校舎から陰になるような花壇の縁を選んで、そこに腰掛ける。

 彼女は自分の隣をぽんぽんと叩いて、あたしに座るよう促した。言われるままに座って足を組むと、ながめは空を見上げる。


「さて、どこから話そうかなぁ」

「……ちゃんと整理してから来てよ」


「うん、おっしゃる通りだねぇ。的確な指摘、傷み入るよぉ」


 ながめはちらりとこちらを見て、話す内容を決めたようだ。


「そうだねぇ、何が起こったかから話そうかなぁ。昨日、九重ここのえが救急車で運ばれたんだ」


 あたしは、あっさりとながめが発したその言葉を、少しの間理解することができなかった。

 救急車と言えば、今日の午前中散々話題にされていたあれのことか。色々な憶測をして、娯楽的に扱ったあの救急車で運ばれたのが知り合いだったなんて。


然人ぜんとが? ……部活がハード過ぎた?」

「階段から落ちたんだぁ」

「は?」


 アイツはお調子者でどこか抜けているところがあるが、運動神経は悪くない。

 階段から落ちたと言われて、ああそうだよね、そういうところもあるよね、と納得できるタイプではない。むしろ、足を踏み外して落ちたところで、綺麗に受身を取ってから「いやー、今のはヤバかったな!」なんて笑っているような人間なのだ。

 そんなやつが階段から落ちて救急車の世話になるなど、想像できなかった。


「アイツ、大丈夫なの」


「今日は学校に来てないみたいだけれど……大丈夫じゃないかなぁ? 落ちてからもヘラヘラ笑ってたしぃ。……頭から血は出てたし、足もやっちゃったみたいだったけれどぉ、死ぬようなことは無いと思うよぉ」


 あたしはひとまず安心して、小さく溜め息を吐いた。


「……居眠りでもしながら歩いてたの?」

「さすがの九重も、そこまで器用じゃないと思うよぉ。いや、落ちたんだから結局不器用なのかなぁ。……ともかく、そういう訳じゃなくってぇ、突き落とされたんだって」


 あたしはまた、絶句してしまった。突き落とされたということは、当然突き落とすような「誰か」がいるということになる。

 愉快犯でないのなら、然人に恨みを持った人間がいるということになるが、そんなやつは思い当たらなかった。


 積年の恨みがあったならともかく、まだ高校生活が始まって二ヶ月程度。そんな短期間で、あいつが突き落としたくなる程の恨みを買うとは到底思えない。


「誰から聞いたの、その話」

「九重から直接。夕方、階段下にぶっ倒れてるあいつを見つけてぇ、保健室と救急に連絡したの、実は私なんだぁ」


「昨日の夕方って……、あたしあいつに会ってるんだけど」

「……へぇ?」


 あたしの発言に、ながめは硬かった表情を崩して、興味深そうにニヤリと笑った。何か彼女にとって面白い情報を与えてしまったようで癪に障ったが、事実なのだから仕方が無い。


 昨日の夕方、あたしは確かに、一年の教室が並ぶ二階の廊下で彼に会った。

 アイツは「影人間は解決した」なんて一方的にのたまって、一昨日の麗の様子について聞かれたと思う。


「突き落とされたって言うけど、あのとき、だいたいのやつらは帰るか部活に行くかしてたでしょ。あたしも教室出たの最後だったし、廊下にも、他に誰もいなかったと思う」


 昨日は両親が早く帰ってくる日だったから、帰りたくなかった……なんてことは言わない。


「つまり、本当は突き落とされたなんて嘘でぇ、九重はうっかり階段から滑り落ちた。私に話したのは、運動神経を馬鹿にされたくない照れ隠しか何かだったということかなぁ?」


「そこまでは言ってないでしょ。照れ隠しみたいな理由で、あいつが誰かに責任をなすりつけるようなやつだとは思わない」


 ながめは、張り付いた笑顔そのままに、じっとこちらを見つめてくる。

 ……楽しんでやがんな、アンタ。


「その信頼。妬けちゃうねぇ」


「茶化すな。特殊教室の方ならまだしも、教室側の階段なんでしょ? 案外、すぐに犯人は見つかるんじゃないの。去年あんなことがあっての今年だし、然人の怪我がそこまで大ごとじゃなければ、突き落としたやつが然人に謝って、終わりでしょ。大人って汚いからさ」


 ふと、先生や両親の顔が浮かんできた。


 あたしはカーディガンの両ポケットに手を入れて、立ち上がろうとする。すると、ながめが腕を引っ張ってあたしを止めた。あたしは諦めて、彼女の方へ向き直る。

 コイツ、見かけによらず力が強いのだ。


「犯人は見つからないよぉ。先生に任せているだけじゃ、絶対にねぇ」

「……どうしてそう言い切れんの」

「九重が、保健室の先生には滑って転んだって伝えたんだぁ。突き落としたって伝えたのは、私にだけ」

「は?」

「先生に言っても、信じてもらえないからだよぉ」


 あたしは力いっぱい彼女の手を振り払った。


 ……わかっていた。わざわざながめが中庭にまで連れ出すのだから、よっぽどの爆弾が眠っているに違いないということくらいは。

 それにながめの性格からいって、それを話の最後に持ってくることは疑いようもない。


 海外ドラマによく「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい」なんて台詞があるらしいが、ながめはそれを問うまでもなく、一番悪いニュースを最後に持ってくるような人間なのだ。


 ここまでの話は長い「フリ」だ。ながめは人間が一番興味を持つところに、一番大きな爆弾を隠しておく。

 そして、それがわかっていて……あたしは聞いてしまう。


「どうして、信じてもらえないのよ」


「犯人が……いないはずの高校生、枝高の四百十九人目の生徒だから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る