2 ジメジメ季節の過ごし方

 六月に入ると、浮足立っていた新生活も少し落ち着いてくる。


 停滞した雰囲気と、弛緩した空気。それらが混ざり合うことで、薄暗い梅雨という季節がやって来るのではないかとすら思えた。


 そんなくぐもった空気を打破しようとしたのかそうでないのかは知らないが、今日は朝からわざとらしく、教室内に浮足立った空気が蔓延していた。


 どうやら昨日、枝高えだこうに救急車がやってきたらしい。

 そんな非日常的な話題を、刺激を糧に生きているような高校生が見逃すはずもない。右に左に転がして、がぶがぶと噛み付いて、味がしなくなるまでしゃぶっていく。


「誰が運ばれたの?」


「どうして?」


「怪我? それとも病気?」


「その人って、今日学校来てんのかな」


「そういえば、C組の誰々が――」


「二年の何々先輩が――」


「ねぇ、明日予定されてた、何だっけ。検査? ってあったじゃん」


「登校禁止のやつ? もしかして、それって昨日のことと何か関係が?」


「もしかして、だけどさ。誰かが自殺したりしたんじゃ――」


 噂は噂を呼び、どんどんと話が大きくなっていった。


 自粛ムード漂う現代の、しかも枝高でそんなことを言うのは不謹慎極まりないかもしれないが、そんなことを気にしていたら学校生活なんてやっていられない。可愛い冗談というやつだ。


 こうしている間、あたしはほんの少しだけ嫌なことを忘れられる。例えば、昨晩のこと、とか。


 あたしは出揃った中間考査の結果を両親に手渡し――正確には、強引に取り上げられたようなものだったけれど――もっと頑張らなくてはいけないという、ありがたいお言葉を頂戴した。


 高校で初めての試験だ、手を抜いたつもりは全くないし、何なら平均点は優に超えていたが、彼らが納得するには至らなかったようだ。

 自分たちの子なら、もっとできるはずだ。兄にできたのだから、と。


 ささくれた胸にむかつきがどろどろと流れ込んで、絡み合う。

 手洗の鏡の前で顔を上げると、あたしは自分の眉間にひどく皴が寄っていることに気が付いた。手のひらに水を溜め、その顔にかけてやろうとしたところで、背後に誰かが立っているのに気が付く。


奥之院おくのいん、ちょっと話したいことがあるんだけどぉ」


 声の正体は、同じクラスの切通きりどおしながめだった。

 憎らしいほどに艶々の黒髪が、湿気でうねった私の髪を見下している。


 幼稚園からの付き合いで、切っても切れない腐れ縁。

 愛嬌のある垂れ目の大きな瞳と鏡越しに目が合い、何気なく目を逸らして、出しっぱなしになっていた蛇口をひねる。


「……随分とタイミングが良いじゃない」

「あら、お褒めに与りましてぇ」

「嫌味に決まってんでしょ」


 あたしは両手の水をパッと払い、ポケットからハンカチを取り出して振り返った。見上げると、ちょっとした異変に気が付く。いつもどこかニヤニヤとした表情のながめが、真剣な眼差しでこちらを見ていたのだ。


「面倒な話ならお断りなんだけど」


 眉をひそめてそう言うと、心臓から冷たい血が全身に送られているような気がした。手や足の先から冷えていくのではなく、体の中心から凍りついていくような感覚。


 ながめの表情と、話の切り出し方に思うところがあったのかもしれない。それか、虫の知らせというやつなのかも。


「面倒な話なんだけどぉ。……中庭、付き合ってくれないかなぁ?」


 いつも通りののんびりとした口調。

 でも、有無を言わさないような言い回しで、ながめは言い放った。


 あたしの希望通り、停滞して弛緩した、鬱々とした気分の霧は晴れそうだった。

 しかし、晴れた先にも霧が広がっているような、そんな気がした。

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