10 見慣れない顔見知り
尾先茶介。
あたしはこいつのことをよく知っていた。尾先の祖父の家とウチとは近く、こいつが夏休みに東京から遊びに来るたび、然人を介して良く遊んでいたのだ。
高校進学と同時に近里に帰ってきて、枝高入学から二週間もしないうちに……そう、四月二十日。囚地エリの命日、全校生徒が体育館で集会を受けている間に、中庭の、ちょうど彼女が死んだ場所に赤い塗料をばら撒く――生徒からは「赤い床事件」と呼ばれている――不謹慎にもほどがある悪行をしでかしたのだ。
もちろんそれを教員が黙っているわけもなく、尾先は職員室に呼び出され、その後不登校。
お人好しの然人はたまに様子を見に行っていたようだが、あたしはこいつに同情の余地は無いと思っていた。
尾先はあたしの呼び掛けを無視して、そのまま学校から離れていこうとする。あたしはその動作にいらっと来て、彼の腕を掴んだ。
「挨拶の一つも無し」
「……何だよ」
振り返った尾先の肌は白く、彼がまともに外出していないことを示していた。掴んだ腕も異様に細く、滅多に運動もしていないようだ。
尾先の祖父が亡くなって、あの家には一人で住んでいたはずだから、何か言ってくるような家族もいないのだろう。少しだけ、尾先の環境を羨ましく思う。
「アンタ、あんな事しでかしておいて、よく戻ってこれたじゃない」
「……俺だって来たくなかったよ」
意外なことに、あたしには尾先の横顔がひどく辛そうに見えた。
あたしの言葉に対する買い言葉でなく、本心から「来たくなかった」と思っているような。
勝手に怒られるようなことをしでかして、勝手に去っていったのだから、彼の枝高に対する感情はほとんど何も無いと思っていたのだ。
「どうして誰もいないんだ」
自分のペースで話し始める尾先に苛立つ。
「温室で、俗世との関わりを絶っている誰かさんには関係無いことだろうけど。今日、土曜」
「……部活があるだろ。試験期間は終わったんだし」
「設備検査で禁止」
尾先の体を見れば、温室ではなく、むしろ日陰の倉庫で過ごしていると例えるのが正しかったのかもしれないが、彼を哀れんでやれるほどの心の余裕は、今のあたしには無かった。
尾先は目線を遠くして何か考えていたようだったが、しばらくすると校庭を見やる。
「ああ……だからか」
……何だ? 停電のことを知っていて、生徒がいない日を狙ってきたわけじゃないのか? てっきりそういう日を狙って、担任と面談でもしに来たのかと思っていたのだが、そうではないのか。
「何も知らずに来たの?」
「……」
尾先は何も言わずに、踵を返した。深く被った帽子が、残像も無く彼の顔を隠す。
その様子に、あたしは既視感があった。三日前だったか、然人と朝会話した時だ。フードを被った女子。然人が存在を隠そうとしたあいつ。声を聴くことも、顔を見ることも叶わなかったが、あの時の彼女の去り際が今の尾先と重なった。
そして……あたしは、思い出した。
今の今まで忘れていたのだが、然人が口を滑らせていたことをだ。
「ああ、今茶介のところにいる……」確かに、然人はそう言っていた。あの朝然人とビニールハウス脇で会っていた女と、尾先は何か繋がりがある。
あたしは反射的に彼へ駆け寄り、手首を掴んだ。
枝高に来たくない、と言ったときの尾先の表情に、嘘は無いように思えた。自発的に起こした行動であるなら、自分が近寄りたくない場所に来るのはおかしい。
……この場所にこいつがいるのには何か理由があるはず。
あたしは尾先の前に回り込んで、ちょっとした嘘も見逃さないように彼の顔をじっと見る。
「誰と待ち合わせ?」
「……待ち合わせなんてしてねえよ」
「じゃあ、誰かを探しに来たんだ」
ちらりともこちらを見なかった尾先の瞳が、ほんの少しだけあたしを捉えた。そして、すぐに遠くを見つめ直す。……図星のようだった。
仮に、枝高を追放されたような形になった尾先が復讐を考えていたのだとすれば。偽物の囚地エリを仕込み、四百十九人目として活動させたというのは、十分に考えられる。それを然人に嗅ぎ付けられたから、あいつを突き落とした……筋が通る話だった。
少し飛躍し過ぎた考えかもしれないと思う。ながめに話したら、バッサリと否定されそうな。……だが、今のあたしにはそういったストッパーが無かった。判断の材料になるのは、目の前の尾先、こいつの表情だけだ。
「誰を探しに来たの、尾先」
「誰って……」
「何日か前、然人と枝高の女子が話しているのを見かけた。顔まで隠して怪しい服装だったから問い詰めたら、然人がバラしかけたのよ。アンタのとこに、制服にパーカーを羽織った、あの妙な女が出入りしてるってね」
尾先は鼻で小さく呼吸し、黙ったまま目線を反らした。そこであたしは、反らされた目線の先に屈んで入る。
「ねえ、尾先。昔からあたし、こういうゲームは得意だったよね。ババ抜きでアンタの嘘をどれだけ見抜いたか覚えてる。あたしにアンタの嘘は通用しない。……正直に答えて。四百十九人目の女子高生ってのは、アンタの差し金? あたしを怖がらせたのはどうして? 然人を突き落としたのはその女なの?」
息巻くあたしに対して、尾先は訝しそうにこちらを見返してくるだけだった。
「ちょっと待ってくれ。何の話だ。四百十九人目が俺の差し金? 奥之院を怖がらせた? 然人がどうしたって? 一体、何のことだよ」
あたしが勢いで発した言葉を整理するように、尾先は答える。
そして、この反応と表情で、あたしは察した。誰かを探しに来たということは本当のようだったが、嘘を吐くのが上手になっていない限り、尾先にやましいところは……ない。
「人を探しに来たってのはどういうことよ」
「だから、さっき奥之院が言ってた、パーカーの女子を探しにきたんだよ。然人が話してたって言う」
尾先はわずかに、言いづらそうにしながらそう話して、学校を振り返った。
「だから、誰なのその女は。枝高の生徒? それとも枝高の制服を着ているだけの……」
「……生徒だ。俺たちと同じ一年の。コンノを探しに来たんだよ」
「コンノ?」
「奥之院ならわかるだろ。ほら、俺と同じクラスの。……中間が終わってから学校に行っていないだろ、コンノリサのことだよ」
「アンタ……何言ってんの?」
あたしは尾先の目をじっと見る。
……冗談を言っているような様子はないし、そもそも尾先はそういう意味も拠り所も無い嘘を吐くような人間ではないはずだった。であれば……一体、どういうつもりなのだろう。
通っていた期間はわずかだったが、尾先茶介はA組だ。
つまり、涼子と同じクラスである。他のクラスならいざ知らず、A組には度々訪れるので、その状況についてはある程度知っているつもりだ。
雲がより厚く、低くなって、うっすらと見えていた日の光を遮る。
閉園時間になった遊園地の光が、ぽつり、ぽつりと消えていくように、辺りが暗くなっていくような感じ。
同時に、あたしの心にさっと雨が降り、全身を冷やしていくような感覚が訪れた。
あたしは喉をごくりと鳴らして、尾先にゆっくりとこう告げる。
「A組にそんな子……いないわよ」
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