9 手ぶらで曇天を行く

 翌日、土曜日。

 天候は最悪とは言わずとも、決して良いとは言えないような状態だった。


 空がとても低く、高い建物に登れば手が届きそうな気がする。それほどまでに雲の層は厚く、湿気の多いねっとりとした空気が肌に触れていた。

 天気予報で雨は降らないと言っていたが、どこかで通り雨になってもおかしくないような空だ。


 あたしはそんな天候の中、一人手ぶらで歩いていた。


 休日、家でじっとしていれば両親から小言を言われるに違いない。だから両親の代わりに麗や自分の夕飯を作る必要が無い週末は、友人を誘って一緒に過ごすか、図書館やファミレスや、喫茶店で時間を潰すのが高校生になってからの習慣なのだ。

 だが、今日はそのどの場所にも行く気は無かった。気分が乗らなかったというのもあるし、そもそもお金を使う場所には、今日は入れない理由があった。


 それに、昨晩あのノートを見てしまったから、寝つきも非常に悪かった。何が「大した事は書いていない」だ、クソ兄貴。

 四百二十、四百二十、四百二十、四百二十、四百二十……。思い出すだけで、背筋がぞわりとする。


 昨晩兄貴が東京に戻った後、あたしは彼の部屋を捜索して、そこに置いてあった囚地エリのノートを発見した。


 あたしはこれまで、幽霊がこの世で最も恐ろしいものだと思っていた。けれど、それは誤りだった。あんなに偏執的な考えを持つことが可能な人間こそが、最も恐ろしいんだ。


 スマホを取り出し、時間を確認する。昼の三時過ぎ。

 ……両親から逃れたいために、予定よりも少し早く家を出てしまった。かといって、どこかに寄り道をする気分でも無かったので、あたしはまっすぐに目的地に向かう。


 目的地は、枝高だ。

 その目的は勿論、四百十九人目の真相を確かめることである。

 ながめが昨日言っていた通り、今日は電気機器の検査か何かで停電させるらしく、全校で部活が休み(一部の運動部は、海岸の方でランニングしているらしいが)となっているのだ。


 なぜ今日、四百十九人目の真相を確かめることにしたのか。その答えは簡単で、今日、枝高には誰もいないはずだからだ。


 これまでの例から言って、四時二十分頃、枝高のどこかに彼女は出没する。

 仮に、四百十九人目が幽霊を――囚地エリを騙っているのだとすれば、土曜の、しかも停電検査で学生が来ないであろう日に彼女のフリをする必要は無い。あたしが今日、こんなことを調べに枝高に来ることを知っていれば別だが……この事は、あたし以外は誰一人知らないのだ。


 逆に言えば今日、もしも四百十九人目と思しき人影を見かけたのなら……。

 考えたくも無いが、囚地エリの幽霊というものが存在する可能性が高いだろう。

 涼子がへらへら笑いながら言っていた「何らかの概念によって、枝高という場所に囚われている幽霊」などという、とんでもないものが存在する可能性が。


 ふう、と大きく息を吐く。


 大丈夫。そんなものが実在するはずがない。

 もしも何者かが「停電で部活がないのに、わざわざ学校にやって来た奇特な枝高生」を狙って四百十九人目のパフォーマンスをしようものなら、今度こそあたしは全力で追いかけて、とっ捕まえてやるつもりだ。

 そして、然人を突き落としたことを後悔させてやる。


 校門へと続く、曲がった坂道を上っていく。

 畑、ビニールハウス、生垣、桜の木。近里らしい景色に囲まれながら、ぐるりと進んでいくと……閉じられた校門の前に、誰かが立ち、校舎を見上げていた。

 少し、面倒だなと思った。ただでさえ派手目な恰好で目を付けられているあたしが、登校禁止の学校に現れれば無駄に目立ちかねない。


 これからすることを考えれば、姿を見られるのは歓迎すべきことではない。


 しかし、休みの日に一体誰が?

 業者の人間ではない。作業が終わったのなら校門前にのんびりと立っているはずがない。教員や用務員ならなおさらあんな風に、校舎を見上げて立ち尽くす道理はない。


 あたしは、ジャージの両ポケットに手を突っ込みながら歩き、そいつが判別できる距離まで近付いていく。


 深々と被ったニット帽、だぼだぼのスウェットに、じめっと暑い今日の天気には合わない少し厚手の長袖。布の余り具合から、そいつが華奢な体型だということがわかる。しかし、肩幅は広く、男のようだった。

 休みの日で服装に気を使っていない教員か……? いや、それにしては身体が細すぎるような。


 あたしは正体を色々と勘繰る。

 その顔が識別できる距離まで近づいたとき、あたしはその勘繰りが無駄だったことに気が付いた。


 なぜならそいつは、あたしが考え得る中で、最も枝高の前に立っているはずがない人間だったからである。


 彼まで数歩の所であたしは足を止め、そして呼びかける。


「何してんの、こんな所で。……尾先おさき


 顔だけで振り返ったそいつは――尾先茶介ちゃすけだった。

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