3 チャイムは三度だけ鳴る

 ぴんぽーん。


 間抜けな音によってまどろみから引き戻されると、窓の外は真っ暗だった。


 どうやら、うたた寝をしてしまったらしい。世間とズレた不規則な生活のせいか。体内時計はとうに狂ってしまっている。

 上体を起こしてみると、気だるさがやってきた。どこかピントの合わない頭で、先ほどの音について考える。


 ――ああ、然人のやつ、迎えに来やがったな。気が向いたら行くと言ったのに。


 あいつにとって数学の公式と都合の悪い話は一緒なのだろう。どちらもすぐに頭の外へ抜けていってしまう。彼の中では、尾先おさき茶介ちゃすけは絶対に待ち合わせ場所へ来るのだと変換されているはずだ。


 参ったな。待ち合わせ場所に俺が来なくて、辛抱できずにやって来たのだろうから、他の連中も一緒なのだろう。


 ぴんぽーん。


 もう一度、玄関のベルが鳴る。枝高の連中か。会いたくないなあ、どうやって断ったものか――そう考えながら、寝起きで軸の定まらない身体を持ち上げ、ふらふらと玄関に向かう。


 そうして、ろくな言い訳も思いつないまま玄関の引戸に手をかけたところで……違和感が頭をよぎった。


 ベルの鳴らし方が違う。


 然人は普段、ベルを連打する。

 俺が日中よく眠っており、俺以外家の中に誰もいないことを知っているからだろう。あるいはそこまで頭を回しておらず、ただせっかちなだけで連打している迷惑野郎かもしれないが、今そんなことはどちらでも良い。


 ふと、背後に掛けてある時計を見る。針は十時を回ったところだった。

 思っていたよりも長く眠ってしまったらしい。カザミでの待ち合わせ時刻は六時。……連れ出しに来るには、遅すぎないか。


 ぴんぽーん。


 サーッと腰から頭にかけて悪寒が走り、寝起きの脳が活性化してくる。


 然人ではない。時間が時間だ、宅配便でも電気やガスの検査でもないだろう。気まぐれに教師が家庭訪問に来る時間とも考えられない。怪しい勧誘なら、ゆっくりと話せる昼時を狙うはずだ。

 扉を一枚隔てて、その外側でベルを鳴らしているのは……いったい誰だ?


 居留守を使おうかとも思ったが、既に玄関の明かりを点けてしまっている。

 中に人がいることはもちろん、なんなら戸の曇りガラス越しに俺の影までしっかり見えているだろう。


 俺は唾を飲み込み、なるべく音がしないように扉のチェーンを掛け、それから鍵を開けた。無意識に肺いっぱいに入っていた空気をゆっくりと吐き出し……引戸を、少しだけ開く。


 生まれて初めて、俺は扉が滑る音がうるさいと感じた。


「こんばんは……」


 涼しい風と共に、消え入りそうな女の声が入ってくる。じっとりと首筋が汗ばんできたのは、初夏の暑さのせいだけではないだろう。


「……どちら様でしょうか」


 俺は恐る恐る、引戸の隙間から外の様子を伺った。

 漏れた光に浮かび上がったのは、どこか見覚えのある――枝高の女子生徒の制服だった。反射的に、全身にじっとりとした重みを感じる。


「尾先茶介くんのお宅、ですよね。私です、高校で同じクラス……A組の近野……近野こんの里咲りさです」

「近野?」


 頭の中を検索してみたが、その名前は思い当たらなかった。当然だ、二週間しか顔を合わせていないクラスメイトを全員覚えているはずがない。


 ともかく、声も着ている服も確認でき、ある程度の身分がわかったことで、俺はチェーンを掛けたまま引戸を開けた。ベル音の正体がわかったことで、どこか安心してしまっていたのだろう。

 ……それが失敗だった。もっとゆっくりと姿を確認していれば、あんなに驚かなくて済んだかもしれないのに。


 玄関先に立っていたのは、砂だらけの枝高の制服に身を包んだ、毛むくじゃらの半人半獣だったのである。

 それは、俺が扉を開けたことを確認すると瞳いっぱいに涙を溜めて、こちらを見た。


「尾先くん……お願いが、あるのです」


 ぷつん、と現実世界と俺を結んでいた糸が切れる音がした。

 これは夢に違いない。そう思った。

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