2 気が向けば行くと俺は言った

茶介ちゃすけ、どうしたその顔、真っ白じゃんか。幽霊に取り憑かれたんか?」


 ほんの数時間前、同じ玄関にいたのはまったく違う人物だった。

 九重ここのえ然人ぜんと。俺の同級生だった男である。


「ちっとは外に出ろよ。カラッカラの干物になっちまうべ」

「……」

 俺が無言で引戸を閉めようとすると、然人は右腕を差し込んできて、自らストッパーになった。


「イテテ! イテェから!」

「……いい肉がかかったな。今日の晩飯は腕肉のシチューにするか」

「何だそれ! スプラッター?」


 引戸に挟み込まれた然人の腕は、かなり日に焼けていた。

 さすがは陸上部。五月にしてもうこの仕上がり具合だ。こんな風に焼けに焼けた連中と毎日一緒に練習しているのなら、滅多に外へ出ない俺が死にかけに見えるのも無理はない。

 扉の隙間からもう一本の腕がにゅっと侵入してくると、それは扉板をこじ開けた。


「いやあ。ホラー体験だべ」

「……お前の開け方のほうが、よっぽどホラーだったよ」

「ああ、ゾンビ映画あるあるな! シャッターとか床の隙間からから手が入ってくるヤツ。アレ見た後、おれ扉とかふすまとか見れないんだよなあ」


 俺の冗談に、然人は過剰気味にコメントを返して、にかっと笑う。


 ……眩しい。俺は昔からこの表情が苦手だった。心の底から弾けるような笑み。これを見ていると、ひどく自分が汚れているもののように感じてしまうのだ。


「さっさと帰って勉強しとけ。あんまり出来が悪いと部活禁止されるぞ」

「そいつは情報が遅れてんべ。中間試験は今日、終わったんだよ。これで勉強漬けの漬物生活とはオサラバだ」


 ……ああ。そうか。もうそんな時期なのか。

 喉元まで出かかったその言葉を、俺は飲み込む。


「お前、開放感に浸れるほど勉強してないだろ」

「確かにその通りだけどよ。何というか、テストがあるっていうそれだけで、気分が重くなっちまうお年頃なワケだよ。そんな状況から開放されたおれば……さしずめ、修行用の重りを外した格闘家みたいなもんだな!」


 身軽になっているところに水を差すようで悪いが、本当に心が休まらないのは、答案が帰ってくるこれからではないだろうか。

 しかしながら、本人は達成感に満たされているようなので、指摘するのはやめておくことにした。


「……で、何の用だよ。まさか、そんなことを伝えにきただけじゃないよな」

 俺は暗に、然人に帰れと促す。たいていの場合、こいつは用事があって俺の元を訪れているわけではないのだ。


「ああ、そうそう。茶介、今日これから時間あるか?」

「え?」

 予想外の質問に面食らう。時間があるかと問われれば、それこそ朽ち果てるほどにあった。……が、どうにも嫌な予感がする。


「何だよ、突然」

「あー、えーと。まあ、いいじゃねえか。細かいことはさ」


 珍しく、然人が言いよどむ。


「言ってみろよ。無下にはしないからさ」

「マジで?」

 わかりやすく、然人の顔が明るくなる。予定を聞きに来ているのは向こうなのに、どうしてこっちが気を使わにゃならんのだ。


「ほら、お前ここんとこ、外で遊んだりしてねーべ? 暇じゃねーかなって思ったんよ。何人かで遊びに行くんだけど、気分転換に一緒に来ないか?」

「イヤだ」

「早っ。なんだよー、無下にはしねえって言ったべ!」


「何人かって、どうせ枝高えだこうの連中だろ。……気が乗らない」


 久枝高校。今の俺にとってこれは、呪いの言葉のようだった。

 意識しないようにしても、ふとした瞬間――例えば、何か物を食べようとしたときや、布団に横になったとき――頭の中を支配して、ぎっちりと締め付けてくる。そうなると、自分の周りの重力がふっと強くなって、満足に動けなくなってしまうのだ。


 縁はすっぱりと切ったつもりでいた。だが、俺の心はまだ、久枝高校にしっかりと縛り付けられている。


 俺のそんな様子を察したのか、然人は続けた。


「枝高の連中と会うのが気まずいんだろ。心配はいらねえよ。今回は枝高とはなるべく関係のない、茶介をよく知っている面子だけに声をかけたんよ」

「……そんな奴いたか?」

「ノンとその妹とか。あとは……ながめとか」

「……枝高の連中ばっかりじゃないか」

「しょうがねえじゃん! この辺で茶介と顔見知りの奴、だいたい枝高に行ったんだからさー!」


 俺が久枝高校以外で知り合った近里このざとちょうの人間など両手で数えられる程度にしかいないので、これは仕方のないことだった。……いちいち交友関係を覚えている然人にも驚かされるが。


 そういう意味では、彼は彼なりに、俺を外へ連れ出すことに全力を尽くしてくれたのだろう。気が重いとはいえ、その好意――いや、おせっかいか――を捨て置くのは、少々気の毒に思えた。


「……気が向いたら行くよ」

 断り切れなかった。……これだから、俺は昔から然人が苦手なのだ。彼はぱっと顔をほころばせて、飛び上がる。


「マジで! まさかマジにオーケーしてもらえるとは思わなかったべ」

「……まだ絶対に行くとは言ってないだろ」

「まあ、無理はしなくていいけど、期待して待っとくべ。茶介がいないと始まらないところもあるし。じゃ、六時にカザミの前に集合な」

「……カザミのどこに?」

「あー、そうだな……。じゃあ、外の看板の下で!」


 カザミは、ウチの前の道路から大通りに出て、海側に少し歩いたところにあるホームセンターである。

 土地の余った田舎らしく、店舗面積、駐車場共にやたらと広い。店の敷地内でも、どこに待ち合わせるかを決めておかないと大変なことになるのだ。


 子どもの頃にカザミで待ち合わせをした時なんか、酷かった。

 俺は屋外の看板の下にいたのだが、待てど暮らせど然人が来ない。熱中症になりかけ意識を失ったあの時、あいつは冷房の効いた釣り具コーナーで遊んでいたらしい。


 人生において命の危機など、そう何度も訪れてたまるかとは思う。そのうちの一回が目の前の男によって引き起こされたかと思うと腹が立ってきた。

 そんな不愉快な思い出に顔をしかめていると、然人は「じゃ、後でな!」と爽やかに言い残し、自転車に乗って去っていった。


 奴が起こした砂ぼこりを顔に浴びた……ような気分になりながら、俺はようやく、大きく息を吐き出した。そうして引戸を閉め、屋内を振り返る。


 すると見慣れた風景が、ひどく寂しいものに見えた。掛け時計の秒針の音が異様に大きく感じられる。

 当然だ。この広い家に、俺一人しか住んでいないのだから。台風が去ったあとに残るのは、悲しいほどに晴れた、何一つ無い青い空だけなのだ。


 ――何だよ。こんなの暴力だろ。静けさだけ置いていきやがって。


 あの日から、俺の時間は止まっている。だが、然人の焼けた肌、少し上がってきた気温、中間試験が終わったという知らせ……。外の世界は、時間が進み続けているということを容赦なく伝えてくる。


 このままでは駄目なことはわかっていた。また、今このような状態にいるのが、これまで俺自身が下してきた選択の結果だということも、痛いほどわかっている。


「あぁ、クソ……っ」

 行き場の無いモヤモヤとした感情を抱えながら、俺は居間のクッションへうつ伏せに倒れ込んだ。

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