第1話 近野里咲は狐に化かされる
1 耳と鼻と、それから尻尾
科学信仰が浸透しきった現代において「狐に化かされた」なんていう表現は、甚だ時代遅れのように思う。
東京に住んでいた頃も、この町へ引っ越してきてからも、野生の狐なんて見たことがなかった。
俺にとって狐とは、人を化かす存在などではなく、動物園で檻の外から眺める対象でしかなかったのだ。だから、こんな言葉を使うことは無かったし、きっとこれからも無いはずだった。
だが、その表現を使わずして、目の前の状況をどう説明すればいいのだろう。
「あの……」
玄関先で立ちすくみ、目元にたっぷりと涙を浮かべながら、そいつは話しかけてくる。
「……ご、ごめんなさい」
ようやく絞り出したであろうその声は、かろうじて俺の鼓膜を揺らすと、屋外の闇に吸い込まれていった。
彼女は何に対して謝ったのだろう。こんな時間に家を訪ねたことに対してか、なかなか話を切り出せないことに対してか。
いずれにせよ、ただ家に尋ねてきただけであれば、俺はすぐにでも扉を閉めようとしただろう。彼女がこれから主張するであろうことにどれだけ正当性があってもだ。
たかだか二週間、同じ空間で過ごした程度の人間に負い目を感じることなど何もない。第一、非常識な訪ね方をしてきたのは向こうの方なのだから。
しかし、俺はその場で固まってしまった。頭ではいろいろと考えが巡るのだが、それは断片的なもので、まとまった形にならない。目から入ってくる情報と頭の中で考えている情報が切り離されているような、そんな妙な感覚だ。
そうなる原因は彼女の見た目にあった。
黒髪でクセのあるボブ、まっすぐにこちらを見つめる瞳、肩にかけたスクールバッグ、俺の通っていた
……その格好をした人間が俺の家を訪ねる可能性がどれだけ低いのだとしても。
しかし、わざと見落とすには大き過ぎる違和感が、どうしても目に入ってきてしまう。
毛むくじゃらの顔、もこもこの腕、少し出張った黒く丸い鼻、スカートの裾からはみ出したふわふわの尻尾――そして、頭のてっぺんからピンと生えた二本の耳。
半分獣、半分人間の少女が、そこにはいたのだ。
「……私を」
彼女はそこまで言いかけてから、こちらをまっすぐに見直して、こう言う。
「私を、匿ってくれませんか……?」
そう願い出る彼女に、俺は目を白黒させることしかできなかった。
……ここで、改めて。
この状況を「狐に化かされた」という表現を使わずして、どう説明すればいいのだろう?
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