4 あうう、なんて可愛く零しても

 誰が言ったか、現実というのは非情なもので、いくら意識を飛ばそうとしても気を失うことはなく、また夢から醒めることもなかった。


 半分獣の女が訪れてきて、匿ってくれと言う。助けてくれれば、お礼に金銀財宝をあげましょう。……そんな絵本のワンシーンが思い付いた。

 いかにも昔話的で、現実離れした現実だ。


 ――だが、いかに現実離れしていようと、目の前に半獣の少女が立ちすくんでいるという事実からは逃れられない。このまま何もなかったことにして、扉を閉じる選択肢もあるだろう。しかし、いくら人間と同じ姿をしていないからといって、俺は助けを求める女の子を門前払いするほど非情にはなれなかった。

 涙をいっぱいに溜めた、その珍しい金色の鋭い瞳に見つめられ、心の中を見透かされるような気分になったせいでもあった。


「匿うって、どういうことだよ」


 ようやく捻り出した声は思ったよりもずっと小さく、そして震えていた。

 情けないことに、近野よりもずっと頼りない声量だった。これは然人以外の人間と近頃まともに会話していないせいであり、彼女の耳や毛のせいであり……一番大きな要因は、彼女が枝高の制服を着ていたせいだった。


「どうって……それは……ええと」

 近野は目を泳がせて、両手を頭の上でぴんと立っている耳に持っていった。

「これを……どうにかしたいんです」


 彼女はそう言うと「あうう」なんて零しながら、両耳をぺたりと閉じ込んだ。

 あざとい。こういった女子の恥じらった動作を見て少しはドキッとするのが年頃の男子としては正解なのだろうが、俺の心にはときめく余裕などなかった。


「……俺、尻尾のあるクラスメイトはいなかったはずなんだけど」

「もともと生えていたわけじゃないですよ、もちろん……だから、困っています」


「突然耳や尻尾や毛が生えてきたとでも言いたいのかよ」

「信じてはもらえないと思いますが……その通りなのです」


 悪い冗談だ。そんなことがあるもんか。アニメや漫画の話じゃあるまいし。


 通わなくなった高校の制服を着た女子の獣が、助けを求めてくる。もしもこれが夢だとして、夢占いの専門家に聞かせたら面白い分析結果が返ってきそうだ。


 また、言葉を二つ三つ交わすうち、俺はようやく思い出してきた。

 近野里咲。

 確かに、久枝高校で同じクラスだった女子だ。クラスの自己紹介で、先ほどのように恥ずかしがっていたのを見た覚えがあったのだ。


 すぐに思い出せなかったのは、やはりその姿のせいだろう。こうなる前の顔は思い出せなかった。……あくまで、その仕草が印象に残っていたというだけだ。


「特殊メイク……じゃないよな」

 俺は彼女越しに、然人やクラスの連中がいないかを伺う。手の込んだドッキリを疑ったのだ。


「ごめんなさい、そういうわけでは……そうだったらどれだけ良かったか。こんな姿、あまり人に見られたくはないのです」

「だったら、何で俺のところに来たんだよ。俺なら見られても気にならないか」

「私の家、三駅先なので、この辺りには知り合いもほとんどいなくて……頼れるの、尾先くんくらいしかいなくて」


 近野はまた、涙ぐんできた。くそ、このまま追い返したら俺が悪者だ。

 心の中に浮かび上がる色々なモヤモヤを抑え付け、俺は結局、最も波風立たない選択を取ることにした。


「……上がりな。話くらいは聞くよ。何か事情があるんだろ。そんな格好でウチの玄関先にいられた方が迷惑だ」


 東京と比べれば周囲に家が少ないとはいえ、誰も通らないとは限らない。

 このまま玄関先で話を続けて、この姿の近野を通報されたりした日には、非常に面倒なことになる。……警察に任せてしまうという手もあるだろうが、引き渡すときのやり取りを想像すると億劫おっくうでしょうがない。


 仕方がないので、自分から向かってもらうように話をすることにしたのだ。


 チェーンを外して扉を開けると、彼女の姿がより鮮明になる。

 やはり、奇妙な姿だ。

 髪の毛は黒いが、全身を覆う毛は……茶色というのか、茶褐色というのか、ともかく明るい毛色だった。続いて、尻尾に目をやろうとして……スカートに目を落としたところで、少し恥ずかしくなり目を反らした。


 俺は何も見なかったことにし、スペースを開けて近野を招き入れようとしたのだが、彼女は動かなかった。


「……なんだよ、男子の家に上がるのは嫌か? だったら――」

「いえ、そうではなくって」


 近野はこちらを向き直り、涙を拭った。


「尾先くんって、優しいのですね」


 改めて言われるほど、特別に優しくしているつもりはなかった。

 むしろ、彼女の制服のこともあって、半ば八つ当たり気味に話していたようにも思う。……まあ、言う通り唐突に耳や尻尾が生えてきたのだとすれば、彼女が通常よりもセンチメンタルになっていてもおかしくはないが。


 彼女は制服の砂を払い、履いていたスニーカーを脱ぐと(そこからも、やはり毛むくじゃらの足が出てきた)玄関のマットをぺたぺたと踏んだ。俺はそれを見届けると、先ほどまで寝落ちていた居間へ先導する。


 その途中、ふと彼女が話しかけてきた。


「こんなことになったのが、尾先くんの家のそばで良かったです」

「……だいたい、何で俺の家を知ってたんだよ。俺、枝高でお前と話したことないと思うんだけど」

「裏のほこらに、何度かお詣りに来たことがあって。そのとき、尾先くんのおじい様にお会いしたのです」

「祠? ……ああ」


 ウチの前の道路を大通りとは反対側に進むと、二股に分かれた山道へと繋がっていく。片方の道はウチの私有地になっているのだが、もう片方の道の先には神社があった。近所の人が神主をやっていたはずの小さな神社だ。


 駅のほうにもっと大きな神社もあるので、あえてあの場所へお詣りに行こうなんていう人間は珍しいが、まあ、全く無い話ではないだろう。

 あまり信心深くないので良くは知らないが、神社によってご利益は違うみたいだし。


「ジジイと知り合いだったのか」

「はい。私、何かお願いごとがあるとあの祠に行っていたんですけれど、その行き帰りに知り合って。ほら、あそこに行くにはこのお家の前を通るじゃないですか。お会いするたびに面白い話を色々としてくれて。そういえば……おじい様、今日はいらっしゃいますか」

「……死んだよ、少し前に」


 そう言うと、後ろの足音が止まった。


「俺が引っ越してくる直前にな。だから、この家に住んでるのは俺一人なんだ」


 振り返ると、彼女は足元に目線を落としていた。

「そうだったのですね。ごめんなさい、私知らなくて……」


 俺は、酷く悪いことをした気になった。

「……気にすんなよ。話し始めたの俺だし」


 少し軽くなってきた空気が、再び重くなってしまった。

 こんなことを言うとジジイに怒られそうだが、俺は彼の死を引きずっているわけではないし、ショックだったわけでもない。


 そもそも、もういい歳だったのだ。あえて心残りを引き出そうとするならば、もうほんの少しだけ長く生きてくれれば看取ることもできたということくらいだ。一応、俺を迎え入れてくれた恩人なのだから。


 ……ともかく、この件に関して彼女がへこむ道理はない。


 こんなとき然人なら、気の利く言葉でも言って場を暖めるのだろうが、俺にそんな芸当はできなかった。ただ無言で、居間へと歩いていく。

 気まずい空気が周囲に漂いだすと、俺は少し選択を後悔した。やはり追い返すか、玄関に入れて戸を閉めて、そこで話を聞いてしまえばよかった。


 だが、済んでしまったことは仕方がない。居間に着くと、近野をテーブルの手前のクッションに座るよう促して、俺は奥のクッションに座った。彼女は座ってから、

「あっ。……毛がついちゃったらごめんなさい」

 と言って、慌てて立ち上がる。

 この子は謝ってばかりだな、と思う。クッションの方はというと、既に手遅れで無残な姿になっていた。……生え変わりの季節か?


「あうぅ」

「いいよ、後ではたくから……で、何がどうして、そうなったんだ」

「あ、はい。そうですよね、それをご説明しないと……とは言っても、私も良くわかっていないのですけれど」


 彼女は正座で座り直して、こちらをじっと見つめた。


「私は今日、大切な人のために、一つお願いごとをしようと思っていて。いつも大事なお願いごとは、あの祠ですることに決めていましたから」

「随分遅い時間に行ったんだな。あの道真っ暗だろ」


「はい。本当はもう少し早く来たかったのですが、学校で用事があって。結局、この道を通ったのは日が暮れた後でした。でも、どうしても今日中にお詣りをしたくて。そして、私……山道に入ったところで、見てしまったのです」


 迷いなく説明をしていた近野は、急に神妙な口ぶりになった。心なしか彼女の表情に緊張が走り、耳を後ろに引いているように見える。俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「……何を見たっていうんだよ」


 彼女は胸に手を当てて一呼吸し、それから言った。


「不気味な、光を見たのです」

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