5 私、光を見たのです
「……光?」
てっきり、幽霊でも見たと言われるのかと思っていた俺は、ひどく拍子抜けしてしまった。するとその様子に気が付いたのか、妙に鋭い視線をこちらに向けてくる。
「はい、光ですっ」
近野はぐっと身を乗り出してきた。
彼女の高い鼻先――顔立ち的な意味ではなく、本当に人間離れして高いのである――が触れてしまいそうなほどの距離だったので、俺は思わず顔を逸らした。
「そりゃ、光くらいあるだろう」
「でも、山道に入ってしばらく行ったところですよ。さっき尾先くんも言ってましたけど、あの道は日が沈んでしまえばかなり暗くなりますから、光るものはないはずです」
神社までの道は、日が暮れてしまえば確かに真っ暗だ。
電灯は設置されておらず、道路は途中で無くなり、後は登山道とも思える段差続きの一本道である。木々に囲まれていることもあり、そこまで行ってしまうと外から入ってくる光はかなり少なくなるのだ。
「それでも、何か光が入ってくる可能性はあるだろ。例えば……夕焼けとか、水溜りに月光が反射したとか、誰かが煙草を吹かしてたとかさ」
「断言はできませんが……私は、違うと思います。あれは道の真ん中で、ゆらゆらと浮いていて、色は緑色でした」
「緑色の光……? 何だ、それ……」
「輪郭がぼやけていて、はっきりとした形は持っていなかったように思います。こんなことを言うと変かもしれませんが、まるで花が咲いているような。……少し遠かったので、ハッキリとは見えなかったのですけれど」
「……ありもしないものを、見たつもりになってるだけなんじゃないのか」
俺がそう言うと、彼女は肩をすくめた。
「確かに、そうでないとも言いきれません。……でも、確かに私は見たのです。道の真ん中にゆらゆらと浮かぶ緑の光と、あと……」
近野は少し言いづらそうに指先を合わせると、目線を落とす。
「その下、おそらく地面の辺りで……黄色い円を」
「黄色い円?」
「はい。距離も良くわからなかったので、正確な大きさはわかりませんが。これくらい……だったと思います。もう少し小さかったかもしれません」
近野は、両手の人差し指と親指の指先をあわせ、円を作った。
「その円も光ってたのか?」
「はい、暗さもあって、光っているものでなければ見えないと思いますし」
「それもそうか」
暗闇に咲いた緑の光に、円形の黄色い光。
並んだ要素だけ考えれば怪談のようだったが、近野の口から聞いている限りでは、あまり不気味さを感じなかった。俺の想像力が乏しいのかもしれないが、直接見たかそうでないかには、大きな差があるのだろう。
「まあ、近野が光を見たのはわかった。で、その光と近野がそうなったことに、どういう関係があるんだ」
俺が耳を指差すと、彼女は少し恥ずかしそうにそれを隠す。
「あ、はい。あの、恥ずかしいことに、私、その光を見て……気を失ってしまったのです。きっと、その場で倒れたんだと思います。気がついたら道を外れて、藪の上に寝転んでいました」
光を見て気絶。それができるのであれば、つい先ほどの俺もそうしたかったものだ。
だがまあ、暗い道で何もないはずのところから光がぼうっと現れる……なんて出来事に遭遇したら、玄関を開けたら人がいた、という事態よりビックリするのも無理はないだろう(ただし半分獣の人間だった、ということを除外すれば、だが)。
その延長で人事不省に陥るなんてことは……まあ、気の弱そうな近野なら無くはない話だと思った。
「それで、この時間になったわけか。確かここらを通ったのは、日暮れごろって言ってたよな」
「はい、それからしばらく気絶していたと思います。ようやく我に返って藪から起き上がろうとすると、妙な感覚がありました。腕や足がやけに枝や葉に引っかかるような。ただ、真っ暗ですから、なぜそうなっているのかわからず……それで、自分の身体や顔を触ってみて……いつもとは感触が違うことに気がついたんです。最初は、草が巻きついているのかと思い、明かりのある場所まで降りてきました。そうして道路に出て、街灯の下で鏡を見て……そこで初めて、こんな姿になっているのを確認したのです」
「なるほどね」
つまり、光を見たところまでは憶えているが、それ以後、耳が生えたり尻尾が生えたりした経緯は全くわからないということだ。
「そもそも、耳や尻尾が生えるなんてこと自体が異常事態だよな。今、とにかく優先すべきなのは、身体を元に戻す方法だろ。……やっぱり、病院とか警察で話を聞いてもらったほうがいいんじゃないか。俺はあんまり力になれそうにないし」
元々そういう方向に話を持っていくつもりだったが、事情を聞いてから客観的に考えても、それ以外の選択肢は取りようがないように思えた。
……そんなことは、玄関先で彼女に出会ったときからわかりきっていたことだけれど。俺みたいな人間より、もっと頼りになる大人たちの世話になった方が、彼女にとっても良いだろう。
「ええと、それは……」
近野は、目を泳がせる。
「こんな風になっておいて、何を言っているのかと思われるかもしれないんですが……私、事を大きくしたくないんです」
事を大きくしたくない。
彼女は意図があってその言葉を選んだわけではないのだと思う。しかし、その言葉を聞いて、俺の心にある光景がフラッシュバックした。
「先生も、事を大きくしたくないんだよ、尾先……お前のためにも」
大荒れの天気。職員室の窓が雨と風に叩かれている。
「わかるだろう。お前以外は、全校生徒が、全職員が、体育館にいたんだ」
慌ただしいその部屋で、小さく、鋭く響く担任の声。言葉は俺の耳にしか届いていないだろうが、その部屋にある全ての瞳が、俺の方に注目していた。
「尾先はほんの悪戯のつもりだったのかもしれない。でも、あれを見た人間がどう思うか考えてみろよ」
根本的に、質問が間違っていると思った。こいつは俺を犯人だと決めつけているのだから。
俺だって聞きたいんだ。何が起こっているのか説明して欲しい。しかし、もやもやと黒ずんでいた心は、自暴自棄に――。
「尾先くん?」
声をかけられ我に返る。
目の前には心配そうに覗き込む近野の顔があった。
じわりと全身に冷や汗をかいているのを感じる。俺は右手で口を覆って深呼吸をし、どうにか心を落ち着かせ、返事をした。
「わかったよ」
「いえ、それよりも……尾先くん、どこか具合、悪いんですか?」
俺が喋るのとほぼ同時に、近野は俺の頭に手を伸ばしてきた。手のひらを出して彼女を制止し、俺はもう一度大きく息を吐いた。
「大丈夫。……ともかく、わかったから。気にしないでくれ」
近野はそれを聞くと、喜ぶとも安心したともとれない、微妙な表情をした。自身の希望が通ったことよりも、俺に対しての心配や、無理を言っている申し訳なさが勝っているのかもしれない。
「ごめんなさい、無理を聞いていただいて」
「病院や警察に突き出しはしねえけど、せめて自分の家にくらいは連絡取っておけよ」
手に取ったスマホの時計は、もう十一時近くを示していた。
ついこの前まで中学生だった女子高生が出歩くには、危ない時間だ。耳や尻尾が生えるような事態になっていなくても、制服で出歩けば補導されかねないし、何より家族が心配しているだろう。
「それは……大丈夫です。私、連絡する相手がいませんから」
「え?」
「はい、だから、その点は問題ありません」
「あ……ああ」
あまりに近野があっさりと答えたので、疑問を覚える前に話題が終わってしまった。連絡を入れる相手がいないっていうのは、俺と同じように保護者が同じ家に住んでいないということだろうか?
……少し引っ掛かるところはあったが、大丈夫ならそれでいいと、勝手に納得する。
「ともかく……事情はわかったが、匿うったって何か特別なことができるわけじゃないぞ」
「長袖の上着と……帽子と、懐中電灯を貸していただけないでしょうか。私、こんなことになってしまった原因を探りにいきたいのです。あの場所に、何か手がかりが残っているかもしれませんし……。ただ、途中で誰かに会ってしまったときのために、この耳と手を隠したいのです」
「懐中電灯? 今から行く気か?」
「え……? あ、はい」
近野はぽかんとして、こちらを見た。
「いや、今から行って、また何かあったらどうするんだよ。あんな真っ暗な道を懐中電灯ひとつで歩いたら、何か手がかりがあっても見落とすんじゃないか」
「でも……明るくなってしまったら、あの光も見えなくなってしまうかもしれないですし。暗いうちに、もう一度行った方がいいと思うんです。明るくなる前は人通りもほとんどないでしょうし……」
確かに、暗い間あの道は人通りが非常に少ない。逆説的に言えば、だからこそ電灯が設置されていないのだ。それに目撃した光とやらも、夜の間に見に行かないと無くなってしまうかもしれない……というのもまあ、わかる話だ。
「そういえば、目を覚ましたときにも例の光は浮いてたのか?」
俺が尋ねると、彼女は唇に手を当てて、考え込むようなそぶりをした。
「いえ、目を覚ましたときは……すみません、体にあった違和感が強くて、光がどうなっていたかは確認しませんでした。でも、目に入らなかったということは……無かったのかもしれません」
「あの道で光が浮いてりゃ、目に入れようとしなくても入ってくるしな。……たぶん、その時に光はもう無かったんだろうけど……」
ここで、少し考える。
これから裏の道を行って、光が見つかる可能性はどれくらいあるのだろうか。人と出会う確率。夜の道の危険度は。得体の知れない何かが彼女の体を作り変えてしまったことについてはどう考えればいいんだろう。
……諸々を考慮して、俺は決断した。何が起こっているのかわからない以上、確認しないことには始まらないか、と。
「しょうがない、一度見に行こう。懐中電灯と……あと、何か上着を持ってくる」
「すみません、何から何まで……」
「いいよ。……たまには外に出ないと干物になっちまうかもしれないし」
そう答えると、近野はくすりと笑った。
とっさとはいえ、然人の受け売りが口をついたことを自覚して恥ずかしくなり、俺は逃げるように台所へと向かった。
破滅願望があるわけではないが、正直カラッカラの干物になろうと、抜け殻のままでいようと、俺はいいと思っていた。少しでも抜け出したい気持ちがあるのなら、こんな道を選んだはずが無いのだ。
シンクの下の戸を空けて、そこにあった懐中電灯を手に取る。
もう一本は……居間にあったはずだ。 引き返し、近野の背後にある棚の上に置いていたもう一本も手にとって、二本ともスイッチを入れてみた。引っ越してきてから使ったことが無かったので少し心配だったが、どちらも問題なく点灯する。
「はいよ」
一本を近野に手渡す。伸びてきた彼女の毛だらけの手。そして、鋭い金色の瞳と目が合い、少しドキリとする。
「しかし、不気味な光に、全身が狐みたいになるなんてな。……まったく本当に、狐に化かされたみたいだよな」
「……狐?」
近野は、懐中電灯を受け取りながら首をかしげた。
「あ、いや。裏の山には化け狐がいるってジジイに聞かされててさ。小学生の頃は良く、狐に化かされるから、あんまり森の奥に入ったらいけないって注意されてたんだよ」
「ああ、そういうことですね。なるほど……」
「ジジイはずっと近里にいたからさ。狐に化かされるなんて、いつの時代の人間なんだって話だよな」
ジジイと親交があったからか、近野は同意すべきか悩んだようで、困ったようにじっとこちらを見返してきた。なんだか恥ずかしくなって目線を逸らそうとした時、俺は今までずっと感じていた違和感の正体に気が付いた。
「目……」
彼女の瞳の色は金色である。もちろん、これだけなら珍しい色の瞳をしているな、というだけで終わりなのだが、それだけではない。
瞳孔が縦に細長かったのだ。
「その目……元から、ってわけじゃないよな」
彼女はきょとんとして、部屋にあった鏡に顔を向けた。
「昔テレビで……たしか、動物の番組で見たことがある。狐も……確か、こういう細長い目だったよな」
「おじい様が、狐がいるとおっしゃっていたのであれば……これはやはり、狐の目に、狐の耳や尻尾なのでしょうか……」
俺は近野の横から鏡を見る。
自分の瞳なんて意識して見たことはなかった。よく観察してみると、俺の瞳は茶色の虹彩に、近野のとは明らかに形の違う、丸い瞳孔からなっていた。特別な違和感がなかったということは、ヒトの一般的な瞳の形……なのだと思う。
「瞳の形も変わっているってのは、ちょっと思いもよらなかったな。耳や尻尾や毛が生えるより、何となく恐ろしい感じがする」
狐に関係した症状が出ている……と考えると、例の光に対する捉え方も、少し違うものになってくるのかもしれない。ふと頭に浮かんだその考えはまったく時代錯誤で、ぼんやりとしたイメージのものだった。
「ぼうっとした光か。人魂や鬼火なんて言葉もあるけれど、この場合はやっぱり……」
いざ言葉にしようとすると、少し抵抗があった。しかし、ここまで前置きしておいて、何も言わないのもきまりが悪い。一呼吸置いて、俺は続けた。
「狐火、ってやつなのかね」
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