3 その記憶は切り捨てられない
嫌な気分で目が覚めた。悪夢でも見ていたらしい。
重い頭を何とか持ち上げ、部屋の外を見る。外はどんよりと曇っていて、誰かが空に分厚いカーテンをかけたかのようだった。
俺は立ち上がり、台所へと向かった。棚からコップを取り出し、なみなみと水を注いで一気に飲む。何故だか非常に喉が渇いていたのである。
飲み終えてシンクにコップを置いたところで、自分はいったいどんな夢を見ていたのだろうと思い返す。
これほど喉の奥につっかえたような気分になるということは、何か語るべき……あるいは、振り返るべき夢を見ていたはずなのだと思う。
俺は寝覚めが悪い。……なんでもない夢なら、こうして少し体を動かして、現実世界になじませるだけで忘れてしまうだろうから。
首筋に手を当てて、俺は冷や汗か何なのか、じわりと汗ばんでいたことがわかる。
そして同時に、自分の見ていた夢がこんな汗をかくような話……カザミの前で、熱中症で倒れかけたあの時の回想なのだと思い出す。
夢というのは、記憶を整理するために見るらしい、というのは誰から聞いた話かも覚えていないが、俺のこの夢の場合は、かえって記憶を混乱させるためにあるように思う。
いつも、途中までは順調なのだ。途中までは、確かにこうなるだろうと、相槌を打ちながら振り返れる。
しかし、ある瞬間を境に、そこまでの記憶が一切無くなって、カザミの前で倒れていたはずの俺が、どうしてかこの家の涼しいクーラーの効いた部屋で横になっているシーンに飛んでしまうのだ。
小説をペラペラとめくっていて、ふと思い立ち前のページをめくると、白紙のページが広がっているような、そんな感覚。
……いや、白紙のページというのは誤っている。正確には、ノイズだ。紙面いっぱいに、ノイズのような黒い線がうごめいていて、その下にあるはずの文字が読めなくなっている。
俺はこの十年近く、幾度となくこの夢を見返した。
成長と共に一人称が僕から俺に代わっても、変わらず同じノイズに悩まされ続けている。
それならばいっそ「よく見る夢だ」と切り捨ててしまえばいいのだが、どうしてかそれができない。ノイズの下には、自分にとって大切な何かが眠っているような気がして――今この瞬間のように、答えの見えない答えを探り続けているのだ。
昔、このことをジジイに話したことがあった。するとジジイはかっかっかっ、と笑って「狐に化かされたんじゃねえの」と楽しそうに言っていた。
……そうだ。俺は「狐に化かされる」という言葉を、このジジイから聞いていたのだ。だから、東京に住んでいた俺が、下手をすれば一生触れることのなかったこの表現を、
ここまで思考を進めて、大切なことに気が付く。
そういえば、近野はどこにいるんだろう。
俺の記憶では、彼女を最後に見たのは二日前……然人から「影人間」がどうのという話を聞いて、バイパス下にまで足を延ばしたときだった。
あの後家に戻った近野は「調べたいことがある」と言って、玄関から出て行った。
それより前にも、何度か家から出て、その辺をふらついていることはあった。
然人と外で話したことも何度かあったようだ。どこに行っているかは知らない。だが、あんな姿になっている以上無理はしないだろうと、ある意味でいえば信頼を……また別の意味でいえば、放置をしていた。
俺は、あまり外を出歩きたくは無かったのだ。
俺は家中を見て回ったが、近野の姿は無かった。貸していたパーカーは無くなっていて、玄関に脱ぎ捨ててあるはずの靴も無い。……どこかに出かけているようだ。
ここで初めて、俺はあまり考えたくない可能性に行きつく。近野の身に、何か悪いことが起こっているんじゃないだろうか。
丸一日程度であれば、いや、それにしたって少し長いが……調べ物が上手くいっていて、連絡をよこさないこともあるだろう。だが、最後に近野の姿を見たのは、おとといの深夜。
俺は時計を見る。すると、昼の十二時を過ぎていた。つまり、近野の姿を見なくなってから、一日半ほどが経過しようとしている。
……然人の姿を見るなり、あの状態で手を振って声を掛けてしまうような奴だ。……誰かに見つかって、騒ぎになっている可能性はないだろうか。
スマートフォンを取り出し、通知画面を見る。連絡は何も来ていないようだった。俺と近里社会との繋がりは、自分の選択してきた行いの結果から、悲しくも然人くらいしかない。その彼から連絡が来ていないということは、俺の中で「近里では何も起こっていない」ということになってしまう。
しかし、万が一、近野が然人のあずかり知らぬところで何か事件に遭っていたら……?
俺には、そのことを知る術はない。それこそ、自分の目と耳で確かめない限りは。
日付を確認する。今日は、土曜日だった。
近野が行きそうな場所というのは、基本的にはあまり人が向かわない場所だ。……しかし、然人や彼女の話を聞いていると、街中をウロウロしていることもあるらしい。
街中に出れば……土曜日とはいえ、部活の行き返りの
体中の筋肉が少しだけ緊張する。
近野が家に助けを求めに来たあの日から、生活に必要なとき以外にも家を出る機会ができた。
それでも、枝高に通わなくなったあの四月から、一か月と少しの時間をほとんど家で過ごしてきたのだ。後ろめたさや、恐怖感……そんなものが、俺の心の中をじわりじわりと侵食していく。
このまま家で待っていれば、近野はけろりと戻ってくるかもしれない。いつものように「ごめんなさい、心配させちゃって」なんて気まずそうに謝りながら、その玄関の戸を開けるのだろう。
でも、そうならなければ?
俺は、二度と開かないこの戸の中に閉じ込められてしまうような気がした。鍵をかけたのは他ならぬ過去の自分自身だ。手をかけて戸を横に滑らせる、そうするだけで鍵は開くはずなのに。
……俺には、その扉にがちがちに鎖が巻かれ、南京錠がかかっているかのように見えてしまう。
しばらく考えて……俺は、タンスからニット帽を取り出してきて、目深に被る。
やはり、一日半も何も言わずに留守にするというのは、異常事態だ。
身寄りがないと言っていた近野が、誰かに保護されたということも考えづらい。であれば、どこかで行き倒れているか、身動きが取れない状態になっていると考えるのが自然だ。そして、彼女がそんな状態になっている可能性があると想像できるのは、近里の中に俺と然人くらいしかいない。
非常事態を知らせるランプも、その存在を知っている人間がいなければ、ただのライトだ。
俺は大きく息を吐いて、重い玄関の戸を横に滑らせる。その力の入れ具合とは裏腹に、その扉はあまりにあっけなく開いた。
そして、俺は一歩踏み出した。梅雨が近付いているらしい、生温くじめっとした空気の中に。
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