2 蝉の声は遠く
ジリジリジリジリジリ……。
叩くように鼓膜を鳴らす音は、目覚まし時計の音ではなかった。
聞くだけでじわりと汗ばんできそうな、真夏のアブラゼミの声。しかし、耳に届くそれはどこか違和感があった。耳栓をしながら聞いている、あるいは隣の部屋の会話を聞いているような、そんな感覚。
どうしたのかと頭を上げようとするが、それは叶わない。
行動を取ろうとして初めて気づいたことは、どこかに仰向けに寝そべっているということだった。指先や足先の感覚はあまりなく、背中に当たるじゃりっとした質感によって、どこか屋外に倒れているということがわかる。目に入ってくるのは、木の枝と葉の裏側。日陰にいるらしい。
ぼんやりとした意識が、だんだんと手元に戻ってくる。
……しかし、それでもしっかりと物事を考えられるような状態ではなく、寝転がっているというのに、ぐわんぐわんと左右に揺らされているような感覚があった。
相変わらず蝉の声は遠く、おぼろげな音としてしか捉えることができなかったが、しばらく聞いているうち、その中に別の音あることに気が付く。
「……コエル? ……」
これは、人の声? こちらに話しかけてきているのだろうか。
こちらをのぞき込む顔が目に入る。正確には輪郭で判断しただけで、逆光を背負っておりその顔は良く見えない。
「私の声が、聞こえる……?」
今度は、何を喋っているのか理解することができた。どうやら、反応があるか確認しているようだ。ふらつく頭を頑張って回転させると、やっと答えらしきものが浮かび上がってくる。
ええと、はい……。
「良かった、意識はあるみたいだね。……ええと、キミ、大丈夫……?」
大丈夫、ではないかもしれません。
「大変……。ええと、今お水とか、その、持ってなくて。こうして扇ぐことくらいしかできないのだけれど」
視界の隅に、パタパタと大きな葉でこちらを扇いでいるのが見えた。そんな大きな葉、どこにあるんだろう。……こんな田舎だから、そんな葉も道端に落ちているものなのだろうか。
こうして、この場所が
しかしどうして、こんなことに……?
「そこの道端に、倒れてたんだよ」
人影はどこかを指さすが、首を持ち上げることができず、どこのことを言っているのか全くわからない。
「……ええとね」
顔の見えない影は続ける。
「この場所では、これ以上のことはできないし……私も、何もしてあげられないから……少し、移動しようかなって。手伝うから、ちょっとだけ動ける……?」
おそらく、同意の言葉を口にしたのだと思う。上半身を起こされ、影の背中に倒れ込むようにして担ぎ上げられた。
「痛いところとか、苦しいところとか、ない?」
その大きな背中は、どこかほんのりと暖かく、瞼を閉じれば安眠できそうだった。しかし、どうしてだか、ここで気を失えばそのまま永遠に眠ってしてしまうような気がして、揺れる頭で必死に考える。
どうしてこの人は、こんなに親切にしてくれるのだろう。
「私もね……昔人に助けられたんだよ。お母さんと二人で、お腹が空いてて、キミと同じように行き倒れそうだった。……そうしたらね、こうして、助けてくれた人がいたの。大丈夫か? って」
つまり、先ほどまで行き倒れそうな状態だったのか。そんなに腹を空かせていたなんて記憶はないが、頭がぼんやりとしていて、そういう状態になった経緯がすっぽりと抜け落ちている可能性も捨てきれなかった。
「キミが、良く似ていたんだよ。道端でぱたって倒れちゃった私たちに。だから……心配になっちゃって。気にしないで。……私が勝手に、こうしているだけだから」
大きな背中はそう言いながら、すたすたとどこかに向かって歩いていく。どれくらいの距離を移動しているのかはわからない。しかし、背負われたままこれだけの距離を移動するのは、赤ん坊の頃を除けばこれが初めてだろう。
しばらくして、ぴんぽーんとベルが鳴った。
「座れそう?」
おそらく、頷いたのだろう。足と尻に地面の感覚がして、ゆっくりと座り込んだ。俯いた顔を上げると、目の前にあったのはジジイの家の玄関扉だった。
安堵する気持ちと同時に……ちょっとした疑念が芽生える。どうして、ここに連れてくることができたんだろう?
その時、遠くから声が聞こえた。
「
聞き覚えのある、友人の高い声。あの野郎、そんな理由で炎天下にいる人間のことをすっかり忘れていたのか。
……そうだ。「僕」はホームセンターのカザミで、夏休みにしか会えない友人――九重
……ありがとう。
僕がそう言うと、目の前の人影は座り込んで、こちらの手を握ってきた。
「お礼を言ってくれて、ありがとう。これで私も、少しは恩返しができたかなって、思うから」
その影は答えてくれる。
そこで初めて、全身のシルエットを見ることができたが……何というか、妙だった。
熱中症になるほどの気温だというのに、長袖に長ズボン、フードを被っている。そして、僕の手を握り込んだその手は……なんというか、人肌というにはあまりに毛が深くて、まるでぬいぐるみの手に触られているようだった。
そして、目の前に現れたのは、金色の鋭い瞳。その目に見つめられると、なんだか……ぼんやりとした頭が、余計にぐわんぐわんと揺れるような感覚に陥る。まるで、この暑さに脳が溶け出してしまっているかのように……。
「その言葉をもらえただけで、私は嬉しいんだ。……そして、この記憶はきっと無い方がいいと思うから」
金色の瞳がひときわ大きく見える。
「……さようなら。
そう言うと、その人影は立ち上がり去っていった。入れ替わって、然人が近くに駆け寄ってくる。目の前の玄関が開き、ジジイが飛び出してきた。
僕の体温が高いことに気が付いたのか、ジジイは慌てて僕を担ぎ上げ、涼しい部屋へと連れていく。
然人も心配そうに、僕たちの後を付いてきて、自分の飲みかけのペットボトルを差し出してきた。一口、二口、水分を取ると、クーラーの効いた部屋に連れてきてもらったおかげもあってか、朦朧としていた意識がだんだんと戻ってくる。
しかし今度は、体力を失っていたことに頭が気付きだしたのか、急激に眠気が襲ってきた。
俺は眠い頭で、ジジイと茶介の会話を聞く。
「九重のボウズ。ありがとうな。茶介をここまで連れてきてくれるとは、感謝しかないぜ」
「え? ……おれは、連れてきてねーべ。その辺の姉ちゃんが、入れ替わりで……」
「姉ちゃん? ……誰のことだ」
「……とにかく、おれじゃなくって……。でも、茶介が大丈夫そうで、良かったべ……! ホント、すまねえ! こうなったのも全部、おれのせいだべ! 後でお菓子いっぱいあげるからさ! 許してくれー!」
僕はカザミの看板の下あたりで倒れていたはずだった。
……だが、そこから今この瞬間までの記憶が全くない。
……いや、そんなはずはない。
僕はさっきまで、誰かと会話をしていた。その相手が誰だったのか、まったく思い出せないのだ。考えれば考えるほど、太陽が雲の裏に隠れていくように、その時間帯に何があったのかわからなくなっていってしまう。絶対に何かがあったはずなのに……。
そうしているうち、眠気はどんどんと強くなり、やがて抗えずに意識を手放してしまった。……それでも、僕はある一つの疑問点だけは手放さなかった。
……僕は一体、どうやって助かったんだ?
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