第4話 尾先茶介は血塗れの怪に挑む

1 トイレの鍵は開いていた

 今、全身をぎゅっと絞れば、バケツを引っくり返したと勘違いされるだろう。それほどまでに、俺は汗ばんでいた。

 じりじりと不快が浸透してくるような気候だけが原因ではない。


 ひどく混乱する。

 なぜ、俺は枝高えだこうの前にいるのか。どうして、俺はこいつと対峙する格好になっているのか。


 こちらを見る鋭い目が細められた。そんなことをしたって、何も見透かすことはできないだろう。当事者の俺自身ですら理解できていないのだから。

 A組に近野こんの里咲りさという名の生徒など、いない。

 言葉の裏に何が隠れているのか、考えを巡らせる。しかし、咄嗟に思いつく憶測はどれも突拍子もないものばかりだ。


 ただ一つ、間違いなく言えることは。

 俺はまた選択を間違えたのだな、ということだけだった。


* * *


 俺は自分がしてきた選択を、いつも後悔してきた。


 中学三年の秋、俺は両親から大きな選択を突き付けられた。来春から海外勤めになる両親に付いていくか、あるいは日本に残り、近里このざとのジジイの家に住むか。俺は後者を選んだ。

 日に日にうんざりしてくる学校生活から逃れたい気持ちもあったし、小学生の夏休みに過ごしたあのキラキラとした日々が、近里には待っているかもしれないという浅はかな期待もあったのだ。


 しかし、およそ三年半ぶりに訪れた近里の景色は、かつて俺が訪れた近里とは大きく変わってしまっていた。

 ……いや、今になって考えれば、変わってしまっていたのは俺の方なのだ。きっと近里の自然は変わらずそこにあり、認識する側の俺から、世界を純粋に捉えることのできる目が腐り落ちて、ひねくれた物の見方が加わってしまっただけなのだろう。


 俺が枝高に行った最後の日。あの日だって、俺は最悪の選択肢を手繰り寄せた。晴れ晴れとしないままだった毎日に嫌気が差して、ほんの出来心で全校集会をサボっただけなのだ。今日と同じような薄ら黒い空だった。そんな空から最低の贈り物が届き、中庭を真っ赤に染め上げた責任を押し付けられた。俺は自棄になって嘘の自白をし、それきり枝高の敷居を跨ぐことは無かった。


 そして、今日だ。枝高に来るつもりなんて、ましてや校内に入ろうなんていう気はこれっぽっちも無かったのだ。然人ぜんとが「影人間」の噂を持ってきたその日から、一日半も音沙汰がないやつの足取りを追おうなどと考えたのがそもそもの間違いだったし、行動に移すには情報が少なかった。


 あいつが行きそうな場所として思い当たったのは裏のほこらと、然人が噂話を持ってきたバイパス下と、枝高だけだ。


 まずは裏の祠、次にバイパス下。そのどちらにも彼女はおらず、俺は少し迷ってから枝高の方へ向かった。途中の道で行き倒れていたらという心配が、俺の枝高に対する忌避の心に勝ったのだ。


 その結果、今どうしてこんな状況に陥っているのか、自分でも理解できていない。枝高前が妙に静まり返っていて、人の気配を感じなかった。それが引っ掛かって様子を見に来たのだと思う(これもまた、後悔すべき選択だ)。

 記憶が曖昧なのは、その後濁流のように押し寄せてきた情報にひどくやられてしまったためだ。


「ここよ」

 俺を無理矢理校舎裏まで連れ込んだそいつは、小さな窓を指してそう言った。胸に猫の柄が描かれている長袖のTシャツに、学校指定のものではない紺色のジャージというラフな格好だ。


 奥之院おくのいん和佳のどか。彼女とは小学生の頃、夏休みになるたびに顔を合わせていた。幼馴染というほどではない。夏に一度か二度見る入道雲のような、季節に紐付いた人間だった。

 それに、俺は昔から彼女が少し苦手だった。何もかも見透かしてくるような鋭い目つきが、その第一の理由だ。


 ただ、だからといって……彼女を見て、俺は複雑な心境になっていた。確かに枝高の人間であって、見るだけで嫌な気持ちが込み上げてくる相手ではあるのだが、同時に奥之院和佳という存在は、子どもの頃の、輝いていたあの日々の象徴でもあるのだ。


 近里の皆からはノンと呼ばれている彼女は、目の前の窓を開けて、困惑する俺の背後に回ると、ドンと背中を押してくる。

「入って」

「入ってって、ここ……」

 開けられた窓の先にあったのは、女子トイレだった。わずかに残っている記憶が正しければ、教室棟の階段下のそれだ。


「何で、そんなこと」

「アンタも見たでしょ。昇降口に鍵掛かってたのを」

 確かに、この窓にたどり着くまでに、俺たちは名前通り二つの関門にぶち当たっていた。一つ目は校門、二つ目は昇降口の扉。一つ目は乗り越えたが、二つ目は施錠されていて、確認するなり奥之院は早々に諦めたのだ。


「そういう意味じゃない。何で閉じられてる校舎に入るんだって聞いてるんだ」

「閉まってるのは停電検査のせい。でも、ここは開いてる。つまり閉じられている校舎じゃないから問題ない。これでいい?」

 思いもよらず枝高が静まり返っていた原因を知ることになったが、今やそこは問題の焦点ではなかった。


「……何でここは開いてるんだよ」

「昨日あたしが、帰りに開けといたの。他の誰にも言ってない。……いずれにせよ、封鎖されてないから問題ないでしょ」

 その状態の校舎は開放されていると言わない。

「怒られるんじゃないのか」

「教室に財布を忘れて困っているの。だからあたしは、早く取りに入りたい。昇降口が閉じていたから、開いている窓を探して回ったら、ここが開いていた。……いい?」

「いい? って、お前な……」

「実際、このために昨日、教室に財布を残してきたし」


 有無を言わさぬ用意周到な理由付けに、俺は戸惑う。すると、そんな気配を感じ取ったのか、

「ほら、早く」

 と奥之院が俺の背中をせっつく。余程人のいない校舎に用があるのか、それとも、腰が重かった小学生の頃の奥之院とは性格が変わったのか。どちらにしても、あまり良い事が起こる気はしなかった。


「どうして、そんなことを……」

「いいから入れ」

 もう一度、強く背中を押され、俺はしぶしぶ彼女に従った。

 狭い窓を潜り抜けて女子トイレに入ると、普段とは違う光景に戸惑った。小便器がなく個室だけしかない。異空間に迷い込んでしまったような、おかしな気持ちだ。何てことはない、ただ女子トイレに入ったことが無いというだけなのだが、日常のレールの上から離れてしまっているのを、より強く感じる。


 後から入ってきた奥之院は、あっという間に俺を追い抜いて、様子を伺うようにゆっくりと廊下側の扉に手を掛けた。

 俺は思わず声をかける。

「奥之院、然人が怪我したってのは本当なのか。さっき話してた四百十九人目に関係があるのか?」

「さっきから気になってたんだけど、奥之院奥之院って、その呼び名イラつく」

 彼女はバッサリとそう言い捨てた。あまりの身勝手さに俺はほんの少しカチンと来て、

「じゃあ、何て呼べばいいんだよ。昔みたいにノンでいいのか」

 嫌味っぽく言ってみる。するとノン――奥之院は、漬けに漬けた梅干を食べてしまったときのような顔をする。


「何か、ヤダ」

「は?」

「アンタが昔、犬の名前みたいって言ったの思い出した」

「じゃあ、どうしろって」

「……もういいや、どうでも。それよりも、今さら然人の怪我のことを確認してくるって。あたしが嘘を吐いたっていうの?」

 ノンは苛立っているのか焦っているのか、それとも校舎に忍び込むという行為に若干の興奮があるのか、取り付く島もない。話題が飛び飛びで、俺自身、何のことを指摘していたのか忘れかけていた。


「然人が怪我したのはわかったよ。でもそれが、俺とどう関係があるんだよ」

 彼女は扉から手を放し、手の届きそうな位置までつかつかと歩いてくると、ギラリと俺を睨み付ける。


「それを今から知りたいんじゃない」

「俺を連れ込んでどうするつもりだ。共犯作りか?」

「そんな目的でアンタを連れ込むくらいだったら一人でやるし、もっと別の人間に頼む。別の目的があるに決まってんでしょ。……怪談に興味は無い。でも、然人を突き落とした奴だけはハッキリさせないと、気が済まないの」

 ……ああ。それでノンは躍起になっているのか。納得している間に彼女はゆっくりと外の様子を伺うと、誰もいないことを確認したのか、すたすたと出ていった。


 女子トイレに取り残される形になった俺は、仕方が無く彼女の後を追う。

 久しぶりに訪れた校内は、ひどく居心地の悪いものだった。ついこの間まで普通に歩いていたはずだったのに、既に自分の居場所はないと、床が、壁が、天井が、俺を拒絶しているように思えてしまう。廊下の掲示板に貼ってある祭りのポスターの笑顔が、こちらを睨んでいるような気がした。立っているだけで、少し気持ちが悪くなってくる。


 廊下は静まり返っており、ノンの足音以外には何も聞こえない。電気は付いておらず、窓から差し込む光も曇天のせいでおぼろげだ。地に足が着かない気持ちを紛らわすように、ノンへ声を掛ける。

「で……何をすればいいんだ。オトリでもしろと?」

「アンタがおかしな事を言い出すから、それを確かめてもらうの」

「おかしな事?」


 ノンはこちらを振り返らず、続ける。

「アンタが探してるっていう女の子。ホンノって言った?」

 名前は誤っていたが、その言葉を聞き内臓が飛び上がる。――A組にそんな子はいない――……ほんの数分前、ノンから飛び出た発言の真意を、俺はまだ整理できずにいた。一呼吸置いてから、彼女の背中に向けて訂正する。

「……近野。近野里咲だよ」


 ノンは意に介さず早足で階段を上っていった。

 一人でいるところを発見されでもしたら、元より学校に通っていない俺はどれほどの時間拘束されるかわからない。そそくさと彼女を追っていく。

「入って」

 ノンが開けていたのは、どこか見覚えのある教室の扉。1-Aの扉だった。


 二度と訪れることは無いと思っていた枝高の教室、その窓際に立つと、ぐらりと視界が揺れるような気がした。 俺たちの他に誰もいないのがわかっているにも関わらず、多くの瞳がこちらを覗き込んでいるような気持ち悪さを覚える。


 ここ数ヶ月の倦怠感に囚われた日々。その日々に至る分岐点があったとするならば、まさに今、俺が立っているこの場所がその地点であったといえる。

 窓から見える景色はどんよりと曇っており、あの日のことを嫌でも思い出させた。


 しかし、その強烈な記憶を上からペンキで塗りつぶすような光景が、俺の目の前には広がっている。拳を強く握り締めると、その上をひやりと汗が垂れていくのを感じた。


 記憶の中にはあったはずの、窓際の席。


 近野里咲の座席はやはり、無かったのだ。

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