2 “近野里咲”

 記憶と現実に齟齬が生まれたとして、その時、いったいどちらを信じるべきなのか。その対象物や、その人自身の感性により答えは異なるだろう。

 だが、少なくとも俺の、近野里咲の記憶についてだけ論じるのであれば、記憶の方を信じたかった。


 教室での彼女の自己紹介は覚えていたし、そもそもここ最近、面倒ごとに巻き込まれがちだったのは彼女のせいでもあった。実際、ここ一週間ほどで経験した記憶の中には、たいてい近野里咲がいたのだ。


 横でノンが、口を真一文字に結んでいる。俺が何か、答えのようなものを吐き出すのを待っているようだった。

 しかし、どんなに期待されても、俺の頭には答えどころか疑問符すら浮かばない。何かが決定的に噛み合っていないこの状況にただ翻弄されるばかりで、例えるならば、夢の世界にいるようだった。不条理で、辻褄が合わず、行き当たりばったりの世界を見せつけられているような気分だ。


 ただ一点だけ違うのは、その荒唐無稽さを当たり前と受け入れることができるかどうかである。……つい最近、こんな気分になったことがあったような気がした。しかし、それが何だったのか回想する余裕は、今の俺にはなかった。


「まだアンタは、近野って子がA組にいたと、そう言うの」

 痺れを切らしたのか、ノンが苛立った様子で言う。

「少なくとも、さっきまではそう思っていた。俺も学校にいる間は話したことは無かった……でも然人だって、近野のことは知ってたんだ。A組の中でどのあたりの席に座っているかだって……」

「……A組にいたって? 然人が?」

 ノンは眉をひそめる。


「でも、あたしはそんな子知らない。昨日だってA組に来たけど、あったのはアンタの空席だけ。一週間前までこのクラスにいたって言うなら、何でもいい。その近野里咲の痕跡はないの」

「それは……」

 やはり、記憶と現実とが噛み合わない。近野の座席があったはずの窓際の一番後ろには何もなかった。まるで、板チョコのブロックを一つ、ぽっきりと折ってしまったかのように。


 何者かが……この場合はノンになるが、そいつが何かを企んで、彼女の座席を他の教室に隠したのか?

 いや、俺が枝高の前までやってきたのは偶然だ。そんな偶然に賭けて、わざわざこんな、何も得られないような冗談を仕掛けるはずがない。


 となると、自然に答えは絞られてくる。

 辻褄が合うその答えに辿り着くと、俺は背筋をムカデのような虫が這っているような気分になった。この考えが正しいのなら、記憶とも、現実とも、矛盾が無くなる。その考えとは、すなわち――。


 近野里咲が、俺の妄想だったということ。

 枝高を飛び出し、登校しないという選択をしてしまったことにどこか負い目を感じていて、そんな現実から目を逸らすために生み出してしまった存在。近野がそんな存在だったとしたら、どうだ。


 高校での記憶は俺が勝手に捏造したもの。然人が同じ記憶を持っていたのは矛盾になるが、俺を哀れんで話を合わせているだけかもしれない。思い返せば然人と近野が初めて会ったとき、あいつは花火の件を誤魔化そうとしていたとはいえ、それだけでは説明のつかない妙な素振りがあったような気がしてくる。

 この考えが正しいのであれば、近野の座席が無いこの現実に不思議はない。


「近野は……本当は存在しなくて。俺の、妄想だったのか?」

「そんな馬鹿なこと考えてたの? あるわけないじゃない、そんなこと」

 長考の末にやっと絞り出した俺の声を、ノンはスマホの画面を見ながらあっさりと否定した。

「あたしは数日前に、枝高の制服を着た知らない女と然人が一緒にいるのを見てんの。その上、その女がアンタの家にいるってことも口走ってた。その女が『存在しない』ってことは無いはず。……正体はさておきね」

「……そうなのか?」


 俺の知らない話が出てきた。然人がそう言ったのであれば、それは近野に間違いないだろう。

 例の、影人間について然人がああだこうだ言っていた日のことだろうか。あいつの口の軽さにはガッカリするものの、今はそれがありがたかった。


「それに、アンタがいもしない女の話を始めれば、あのお人好しだってさすがに、ビンタするなりぶん殴るなりするでしょ」

 冷静になって考えれば、花火を正体不明の光と見間違えたり、山道に転げた跡が残っていたり、彼女が実在しないと説明できないことがいくらかあった。

 いけない。場所のせいか取り乱しているのかもしれない。ひとまず落ち着こうと、俺は額の汗を拭う。


 ……ノンの話も合わせて考えると、余計にこんがらがってくる。近野里咲という存在は実在した。ただし、それは彼女自身が申告したようにA組の生徒ではなかった。近野が俺に同じクラスの者だと嘘を吐き、匿ってもらうことにした……?


 いや、妄想で無いのだとすれば、やはり俺の記憶と矛盾している。あいつは確かにクラスで自己紹介をしていたし、確か然人も……あいつがA組の生徒であるということを受け入れていたはずだ。


「然人が病院送りになってなけりゃ、あいつを直接詰めてやればいいだけだったのに。……まあ、それはいい。尾先、アンタに聞きたかったのは、その女がどんな奴だったかよ」

「……俺を巻き込んだのはそのためか」

「それだけじゃないけど、まあ、そういうこと」

 ノンは表情を変えず、ふと教室の壁を見やった。そうしておいて、すぐに視線をこちらに戻す。


「客観的に見れば、その……近野って女が枝高で『四百十九人目』を演じて、然人を突き落としたんじゃないのって、あたしは思うし、それに――」

 ノンは一歩、こちらに寄る。

「その全てが、枝高に来なくなったアンタの差し金ってことも、十分に考えられる」


 確かに、ノンの持っている情報だけで考えれば、然人を突き落とすような人間は近野しかいないのかもしれない。そして、家にその女が出入りしていたという証言のある俺も、客観的に見ればかなり怪しい。


 然人は近野に対して「四百十九人目」の噂の正体を彼女だと思い、あまり人目に付かないように忠告していた。その上、突き落とされたとき、ながめに「四百十九人目にやられた」と告げたらしいから……彼女が突き落とした犯人で、かつ、四百十九人目だと考えるのが自然なのかもしれない。


「近野や俺を疑うってのは、当然だと思う。それでも、俺は何も知らないんだ。そりゃあ『四百十九人目』の噂自体は然人から聞いたことはあるが、それくらいだ。その他に話せることは何もない。それに、俺には……近野が、そんなことをするような人間に見えない。然人を突き落とすだなんて思えないんだ」


 頼れる人間がいるのかと聞いた時の涙。然人とくだらないやり取りをしているときのにこやかな表情。そして、彼女が「祠」にお願いをしているときの……あの後ろ姿。

 あんなことを、四百十九人目などという怪談をでっちあげ、目的のために他人を傷つけるような人間がするだろうか。


 ノンはしばらくの間、俺を厳しい目で見つめていた。が、やがて首を振って、溜め息を吐いた。そして、スマホを取り出して画面を見たかと思うと、こう切り出した。

「わかった、今のところは信じてあげる。嘘は吐いていないようだしね。その結論は後回しにしよう。あたしはアンタに、どうしても聞いておきたいことが他にもあったの。……四月にアンタがやらかした『赤い床事件』について」


 心臓が掴まれたように、どくんとひときわ大きく脈打った。

 赤い床。俺が枝高に来るのをやめた、始まりの事件。


 どこの誰がそう呼び出したのかは知らないが、学校ではあの一件がそう呼ばれていると、然人がこぼしていた。


「……どうして今、その話が出てくるんだ」

 かすれた声が出る。

「『四百十九人目』に関係があると、あたしは思っているから。アンタが――」


 そこまで言いかけて、ノンは急に口をつぐんだ。

「なんだよ、言いたいことがあるならハッキリ……」


 彼女は急に駆け寄ってきて、手のひらで俺の口を塞いだ。そして、耳元で囁く。

「……誰かいる。足音がする」


 咄嗟に耳を澄ませる。……確かに、誰かが廊下を歩く音が聞こえた。

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