3 足音

 俺は校門前から連れられてきたとき同様、無理矢理ノンに手を引かれて、教卓の中に押し込まれた。声も出せずに顔を上げると、彼女も入り込んでくる。


「冗談だろ、こんな場所に二人で……」

「他にいい場所があった?」

 小声で言い合う。


 教卓は生徒側に向いた三面が床近くまで仕切られており、教壇側から見ない限り足元以外は見えない。その足元も生徒の机によって、後ろの扉からは上手い具合に死角になっている。咄嗟に飛び込んだにしては最善の選択肢だったようにも思えた。

 ただし、逆に言えばここ以外にまともな隠れ場所は無く、足音の主がこの教室に誰かがいたと気が付けば、真っ先に見つかる場所でもある。


 それに、この空間に高校生が二人というのは、あまりに狭すぎた。後から入り込んできたノンの髪の毛が俺の手に当たる。彼女の息遣いが大きく……そして、耳をすませば心音まで聞こえてきそうだった。彼女は緊迫した表情で、廊下の方へと必死に耳を傾けている。

 俺もなるべく息を押し殺し、足音が通り過ぎるのを待った。しばらくすると、幸いにもその音は聞こえなくなる。


「出よう。……というか、ノンが出てくれないと俺が出られない」

「いつ戻ってくるかわかんないでしょ。しばらく隠れておきたい」

 こんな非常事態にどうかとも思うが、俺からしたら見つかるかもしれないというリスクよりも、この狭い空間に女子と一緒にいるという方がよろしくない。実際今、手の置き所に困っている。


「いいだろ、最悪見つかったって。言い訳もあるんだろ」

「それは最悪の場合の話。まだ何も目的を達成してないんだから、見つかるわけにはいかない」

 ノンはそう言うと、この狭い中ポケットからスマホを取り出してその画面を見た。彼女が動くたびに、俺の膝や腹に彼女の腕や手が当たる。飛び上がりたい衝動を抑えて、俺は聞いた。


「……やけにスマホ気にするな」

「時間見てんの」

「時間?」

「……自分でも、バカバカしいとは思うんだけれどね……」

 ノンは少しの間、手に取ったスマホをじっと見ていた。彼女にしては珍しく、どこか尻込みしているようだ。やがて決心がついたのか、こちらを睨み付けた。


「あたし、この噂……『四百十九人目、いないはずの枝高生』の始まりは、あんたが起こした『赤い床』の日にあると思ってんの。だからこそ、アンタに聞いておかなくちゃいけない。『赤い床』事件を、どうしてあの日に起こしたの?」


 足音騒ぎですっかり忘れていた。思い出したくもないあの春の出来事について、彼女は何か聞きたがっていたのだ。ズキンと心臓が跳ねる。その後に選んでしまった閉塞的な日々についてももちろんだが、その事件自体、少しでも考えると背筋が震え上がるような恐怖体験だったのだ。

 どうしていいかわからず目線を落としたところで、ふと疑問が湧きあがった。ただ立ち止まっていたい思考とは別に、それはふつふつと膨れ上がる。ノンはなぜ、事件の詳細でなく、事件の起こった日について聞いてくるのだろう。


「あの日って、何の……」

「……四月二十日」

「……四月、二十日?」

「忘れたとは言わせない。その日にあんなことを決行したからには、何か大事な意味があるんでしょ」


 その日について俺は、まったく心当たりが無かった。俺が事件を起こした側ではないのだから、当然といえば当然なのだが。何が起こったかはよく覚えている。だがノンから聞くまで、俺はその日付すら忘れていたくらいだった。


「何か、特別な意味がある日なのか?」

「何言ってんの。『その日付』を知らなくたって、想像くらい付いてもいいんじゃない? かえって怪しく見えるんだけど」

 問い詰められる形になり、俺はふと考えてみる。……しかし、何も思いつかない。それくらい、中途半端な日付なのだ。その様子を察したのか、ノンは続ける。


「去年投身自殺した、囚字とらじエリの命日よ」

「……は?」

「自殺者の命日に、その現場に赤い液体をぶちまけて。趣味が悪過ぎる。知らないとは言わせない」

「命日……? 現場……? いや、待ってくれ。何の話なんだ」

「何言ってんの。あれだけ話題になったじゃない。それに、全校集会でだって……」

 そこまで聞いて、俺はようやく、ノンの言っていることが腑に落ちた。彼女の言っているのは、俺の知らない近里の話なのだろう。


「俺は三月まで東京に住んでたんだ。ジジイも枝高の話をする前に死んじまったし。言われてみれば、ニュースで高校生の自殺ってのをニュースで見た気はするけれど、去年の四月だろ? 当時、こっちに来るつもりは無かったんだ。枝高でそんなことがあった、ましてや日付なんて、覚えちゃいない」


 嘘偽りのない、事実だった。現場となった近里に住んでいたならともかく、昔、夏休みに訪れていた遠くの町の高校生が自殺をしたところで、そのニュースが流れた当時は衝撃に思っても、時が流れてしまえば綺麗に忘れ去ってしまう。実際、ノンから自殺という単語が出たとき、ようやく思い当たったくらいだ。


「知らなかったって言うんなら、どうしてあの日だったのよ!」

 ノンが声を潜めながらも、語調を荒げる。

「待ってくれ、俺には……正直、何が何だか分からないんだ。ノンが言っていることの一つ一つが、どうしても繋がらない。それに、どうしてそこまで……」

「然人をあんな目に合わせたやつを、突き止めたいの。だから、お願い――」


 柄にもなく必死になるノンを前にして、俺は目線を逸らしながら、あの日の出来事を話さなければならないのだなと観念した。


 ちょっとした出来心で、全校集会をサボったこと。今日のような、ベタつく嫌な天気だったこと。そして――。

 あの日、俺が見たもの。

 窓の外を落下していく、笑顔の人物。

 俺は胸いっぱいに詰まっていた空気を大きく吐き――話すことにした。……この一か月と少しの間、誰にも話さなかった、あの日のことを。


 すべてを話し終えると、ノンは人差し指を頬に当て唸った。


「『赤い床』が自分のせいじゃないっていうんなら、何で黙ってたの。あの事件があって、あの後学校に来なくなったんなら、誰だってアンタが犯人だと思うじゃない」

「あの日、集会をサボっていたのは俺だけだったらしい。生徒も先生もみんな体育館にいて、教室棟にいたのは俺一人。当然、犯人は俺ってことになるだろ」


「……無実を主張することから、逃げたってわけね」

 ノンがバッサリと言い捨て、俺は少しカチンと来た。しかし、何も言い返すことができない。……その通りだった。日常に嫌気が差していたとはいえ、何も言わずに枝高との関わりを一方的に絶ったのは、俺のほうだったのだから。


「でも、アンタが言っていることが本当なのだとしたら、誰がどうやって、あの『赤い床』を作ったの」

 俺は考えを巡らせる。あの事件について、俺は振り返ってみたことは無かった。思い出したくないという気持ちが勝っていたのだ。だが、こんな状況になってしまえば思い返さざるをえない。不思議と、密着した距離にノンがいるとは思えないほど集中できた。


「少なくとも、二人は必要だよな。俺がいたよりも上階……三階か屋上から人形と血を落とす人間と、人形を回収する人間と。……落とす方に何か仕掛けを作れば一人でも可能だろうが、直前まで生徒がいた校舎で、誰もいないはずの窓に向けて、そんな仕掛けを作る意味は無いだろうし」

 言ってしまってから思ったが、そもそも人形を落としたという考え方も誤っているのかもしれない。俺がたまたま全校集会をサボっていたから目撃したのであって、そうでなければあんな小細工を仕掛ける必要がないのだ。


 ……となると、やはり。

 あの落ちていった人間は、本物だったんだろうか。いや、生身の人間が落下して、あれだけの血をぶちまけて、生きていられるはずがない。俺が現場に向かうまでのわずかな時間の間に、そこにあるはずだった身体は消失しているのだ。

 落ちたのは人間ではない。しかし、誰かが悪戯として仕掛けたとは考えづらい。加えて、その日は自殺した女子高生の命日ときた。


 ――亡霊。


 そんな言葉がふと出かかり、俺は唇をぐっと結ぶ。こんな短絡的で常識外れな答えが正しいとは思えない。結論を着地させないよう、俺は別の話題を頭に浮かべた。

「そういえば、この事件と然人の件に関係があるって言ってたよな、ノン。それって、どういう意味だ」

「別に。あたしだって確証があるわけじゃないし。……ただ、アンタの言う通りなのだとしたら、疑惑は少し深まったってところ」

「例の、命日ってのが問題なのか?」


 ノンは少しの間渋い顔をして、目線を逸らした。

「……それもそうだし、問題は日付の並びの方。死んだ囚字エリは、その数字に病的なまでに固執していたらしいから。然人が突き落とされたのも、あたしが昨日――いないはずの高校生を見かけた時間も……四時二十分くらいだった。然人が持っていた中間テストの合計点は四百二十点。加えて、命日も、アンタが『赤い床』を起こしたのも四月二十日……偶然とは思えなくて」

「……本気で言ってるのか?」

「だから、アンタには言いたくなかったのよ」


 ノンはムスッとして、ひざに腕を立てて頬杖を突いた。元より狭かった教卓下の空間が、さらに圧迫されて、俺はもうスペースも無いというのに、どんどん追い詰められる。

 彼女の手の中からチラっと見えたスマホは、四時十分ごろを示していた。


「それで時間を気にしてたのか。……ドッキリでも仕掛けてるのかと」

「そんな面倒なこと仕掛けてもらえるほど、人望があると思ってるわけ?」

 冗談で言っただけだが、確かに、ノンがそんなことをするところは想像できなかった。然人ならやりかねないが、ノンはそういうことは億劫がって、手伝いもしないタイプだったはずだ。

 俺を連れ出すために、裏の道で花火をした先週の夜だって、きっと然人に目的も告げられずに連れられて……。


 そこまで考えが及ぶと、俺は頭の中で何かが引っ掛かっていることに気が付いた。

 そして、思い出す。あの夜明けの違和感。花火の一件があり、ほとんどの問題が解決したはずのあの朝、俺は何かが納得いっていないような気がして、引っかかったことを。あまりに眠くて、当時は深く考える前に寝てしまったのを、今の今まですっかり忘れていた。


 然人の花火についてではない。あれについては、彼の自白をもって決着がついている。

 すると、今まさに渦中の近野に関することか? あの時の近野は、確かに挙動不審だった。しかし、それはあんな身体になってしまったからだという説明で納得できており、ここまで違和感が残るのは妙だ。ならば、何か話している内容に妙なことがあったのか?


 気絶して目覚めたら狐になっていた。俺の知らない裏の祠をなぜか知っていた。この辺りについては、そもそも真実の確かめようがなく、疑問が湧くとか湧かないだとか、そういう以前に受け入れざるを得ない問題だ。これらの内容が、これほど頭に引っ掛かっているのは考えにくい。

 ならば、行動や話した内容か。あの日の記憶を振り返る。近野はあの日、俺の家の玄関に現れる前、日暮れ時にウチの前を通り過ぎ、裏の道を駆け上がって、然人やノンがしていた手持ち花火やねずみ花火を目撃して、道から外れた藪の中に倒れて――。


 そこまで思い出すと、背後から冷気がぞわりと噴き出してくるような気分になった。うっかり、冷たく、暗い洞窟に迷い込んでしまったかのような。足元から、じわり、じわりと寒さがせり上がってくる。


 ――


 唐突に、鼻が鳴ったような甲高い音と、ガツンと何かがぶつかるような音が聞こえ、現実に引き戻される。そこにはノンの凍り付いた表情があった。体制を崩しており、ぶつかった音は彼女が教卓に当たった音に思えた。ひょっとしたら甲高い音は、彼女の短い悲鳴だったのかもしれない。

 どうしたのかと、俺は彼女の目線の先を見る。


「話し声が……聞こえたもので」


 聞き覚えのある声と共に俺の目に入ってきたのは、深く被ったフードの下でギラリと光る金色の瞳。獣になった同級生、近野里咲その人だった。

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