8 ……何か感じない?

 かくして、おれと麗は二人でトンネルに潜っているのである。


 一歩、また一歩と踏み出すたび、麗はぎゅっとおれの手を握りこんだ。子どもの歩調に合わせ、歩幅が自然と狭くなる。トンネルの出口が非常に遠く感じた。


 見えている景色も、昼間とはまるで違う。

 照明はところどころ切れていて、じっとりと壁や床を照らし出していた。

 壁の落書きはところどころ人の顔のように見え、視界の隅に捉えるたびに小さく心臓を跳ねさせる。


 昼間はトンネル内が暗く出口から日の光が差し込んでいたのだが、今は逆だ。

 奥にある四角形の出口の向こうには、真っ暗闇が広がっている。

 まるで、この空間だけが現実世界から切り離され、独立した空間に浮いているようだ。


 地面や壁には、二人分の影がうっすらと映っている。

 そいつらは濃くなりながらおれ達を追いかけ、やがて薄くなりながら追い抜いていく。すると、次の影が後ろからやってきて、同じことを繰り返す。


 風を切るような音が聞こえる。それは頭の上から聞こえたかと思うと、ミシミシという振動と共にこの場に反響し、そして消えていった。

 ……昼間に予習したからわかる。バイパス上を車が通ったのだ。


「お化け?」

「いや、車だべ。大丈夫大丈夫」


 不安がる麗を励ますと、その声が木霊した。その音が想像よりも大きくて面食らう。

 二人分の足音が、古い照明に照らされた壁に、床に、天井に響く。

 どの音が自分の、麗の、反響した足音かわからない。すべてがぐちゃぐちゃに混ざり合って、どこを歩いているのかわからないような錯覚に陥った。


 茶介の推理が頭に蘇った――誰かに付けられている気がする。影が動いたような気がする。そういう気持ちが存在もしない『影人間』を産み出して、また次の人に話が伝わる。そうやって『影人間』は存在を大きくしていく――そうだ。


 このおかしな感覚は「影人間」を意識しているからだ。そんなものがいるはずがない。いるかもしれないと思うから、何でもないことが怖く思えてしまう、それだけなのだ!


 けれど……。


「然にい、どうしたの?」


 足を止めると、麗がおれの異変に気付き声をかけてきた。

 おれは感じていたのだ。明らかに、何かおかしなものの気配を。昼間麗に付けられていたときのような、そんな具体的な感覚ではなかった。

 決して捕らえることはできない、そんな存在の気配を。


「いや、妙な感覚が……何か感じない?」

「……」


 その沈黙が答えだった。

 健気な彼女は笑って平気をアピールしようとしているが、眉は下がっており、寒さに凍えるような、かじかみ張り付いた表情が隠せない。


「おい、マジかよ……」


 乾いた喉から思わず声が出て、反響して、消える。

 おれ達がいるのは、ちょうどトンネルの真ん中あたりだ。痛いほどの静けさが耳をちりちりと焼いてくる。

 明滅する電灯に、麗の顔がちらついた。


 その時だった。視界の隅に……何かが見えた。


 おれはばっと振り向く。

 目に入るのは、入り口の奥に広がる闇と、白く反射するコンクリの壁と、二人分の影だけ。

 それ以外のものを瞳が捉えるはずがないのだ。


 ひやりと首筋を汗が伝う。

 麗を握った手が汗ばんできた。逆の手でポケットに手を突っ込み、スマホを握った。撮影をすれば、写りこんでくる……?


 麗も恐る恐る振り返った。

 もちろん、彼女が振り返ることで何か特別なことが起こるはずもない。遠くから車が走ってくる音が聞こえる。

 それは徐々に大きくなり、そして……。


 雷光でカーテンに映し出されるように「それ」は見えた。


 網膜に一瞬映った、というのが正しいのかもしれない。

 ともかく、それを認識した途端、おれと麗は出口に向けて駆け出した。


 二つの靴音が響く。……二つ? いや、もっと。反響のせいで、いくつの靴音が鳴っているかわからない。

 追いかけられているようにも思えてきた。麗の腕を引っ張る。

 しかし、やはり陸上部のおれと小学生では根本的に足の速さが違う。このまま走り続けるのは無理だ。


 茶介の嘘つき! いたじゃん! 影人間! もう、どうにでもなれ!

 おれは振り返り、彼女を抱えようとした。


 そして見えたのは……何もいない、普通のトンネルだった。


「あれ……?」


 おれが立ち止まると、慌てて麗も足を止める。

 ……車が過ぎ去り、反響の音が聞こえなくなると……辺りには、また静けさが満ちていった。


「さっき……見えたよな」

「……うん」


 頭が冷えてくる。

 駆け出す前、おれは『影』を見たのだ。足元から壁を伝い、天井まで線のように走った影を。だが今は、床にも壁にも天井にも、何の影も映っていない。


 見間違いか? いや、確かにおれの目には映った。

 おれと同時に麗が走り出したのが、幻覚ではないということを証明していた。おれは目を細めて、先ほど何かが見えた辺りをまじまじと見つめる。

 そして……。


「あっ!」

「ひゃあ!」

 おれが大声で叫んだからか、それに合わせて麗が鳴いて、その音波がトンネル内を衝撃波のように駆け巡っていった。


 別に驚かせようとしたわけではない。

 とんでもない事実に気づいてしまったのだ。おれはトンネルを引き返し、先ほど影が大きく写った地点に向かおうとした。すると、麗が手を引く。


「然にい……?」

「ちょっと待ってな、それとも付いてくるか?」

「付いてく」

 麗は即答する。本当に鋼の心臓だな、この子。ノンだったら絶対に来ないべ。


「何かあったの、然にい」

「いや、さっき見えたあの影な。最初はお化けかなんかかと思ったけど、ひょっとしたら……」


 おれは瞬きをしないようにしながら、壁をじっと見る。

 少し埃っぽい空気が目を乾燥させた。そのまま数十秒が過ぎ、その瞬間が訪れた。おれはその瞬間をバッチリと目に焼き付ける。


 一瞬、背後が明るく光ったかと思うと、床から天井にかけて、細く黒い影が一直線に走ったのである。

 すると、それはカメラのフラッシュのように、瞬く間に消えた。


「今のって、さっきの影だよね、然にい……」

「だと思う。視界の隅にチラチラ映ったのはこれだべ」


 おれはポケットからスマホを取り出し、ライトを付けて天井を照らした。

 照らし出されたのは、大きく描かれたスプレーの落書きと、端だけがわずかに光り、今まさに寿命を全うしようとしている蛍光灯。そして、その蛍光灯の上をバッチリと横断した、黒いスプレーの線だった。


「なんだよ、ビビらせやがってえ……!」


 蛍光灯はたまに思い出したように光り、壁にスプレーの影を映し出していたのだ。

 なるほど、これなら照明の付いていない昼間は目立たないし、夜も基本的には光っていないのだから気づけねえべ。こうやって、光を当てたりしない限りは。


「ぷっ。あははは!」


 麗が思わず吹き出し、大きく笑う。

 その音は昼間、この場所で彼女が笑ったときのように反響して、そして消えた。


 怖いという気持ちが存在もしない「影人間」を産み出して、また次の人に話が伝わる。そうやって「影人間」は存在を大きくしていく、か。


 こうして噂の中で形ができてしまえば、こんな偶然に生まれた、ただの「スプレーの影」も、こうして「影人間」へと生まれ変わるってことだな。

 あるいは、影の方を先に見間違えたのかもしれないが、どちらにしても大出世したもんだ。




 おれと麗は、その後すぐにトンネルから凱旋した。


 一時はあれほど恐ろしかったトンネル内が、まるで自分の部屋のように思えた。一仕事終えたような気分で、夜風がとても心地良い。

 すると、グゥ、と気の抜けた音が聞こえる。


「腹減ったんか。送ってこうか、麗」

「ううん。一人で平気」


 おれの申し出を断る麗をほんの少し心配したが、ここから奥之院の家まではそう遠くないし、道もまっすぐだ。まあ大丈夫だろう。来るときだって一人で来たわけだし。


「そっか、偉いな。気をつけて帰れよ!」

「じゃあね、然にい」


 彼女は駆け出して、あっという間に闇の中へ消えていってしまった。

 ……しかし、何だ。こうなるとトンネルの中より、よっぽどこの夜道の方が怖いと思うんだが、通いなれた道はまた違うってことだよな。


 おれは麗の、少しだけ大人になった背中を見送ると、自転車に跨った。

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