6 しょぼんと垂れた狐耳

 相変わらず、右腕に力は入らなかった。

 俺は先を駆けるノンに置いていかれないように、一段飛ばしで階段を下りる。片腕が使えないと、こんなに走りにくいものなのか。足に衝撃が伝わるたび、バランスを崩しそうになってしまう。


 教室を飛び出したくらいで息が上がっているのは、先ほどの一件で、強い緊張状態にあったからだろう。ノンは階段を降りてすぐ、昇降口へと向かった。鍵はかかっていたが、内側からであれば開錠することができるはずだ。

 一目散に走っていくノンを追いながら、俺は後ろを気にする。俺の後ろについてくる近野の、そのさらに後ろには、何もいなかった。


 ノンは一足先に昇降口の扉にたどり着き、取っ手に飛びついた。記憶が正しければ、ツマミ状の鍵が付いていたはずだ。あそこまでたどり着けば、ひとまず枝高から逃げることはできる……俺は一息ついて、後ろを振り返った。先ほど教室に現れたあれは、まだついてきていないようだ。


 様子を見に、戻るべきなんだろうか――などと考えていると、突然、ノンが叫んだ。

「ああ、もう! どういうこと!」

 苛立っているような声を聞いて、俺は慌てて扉に近付く。ノンは鍵を両手でぎゅっと握り込んで、動かそうと力を入れているようだったが……その腕は、びくともしない。


「どうしたんだよ」

「鍵が開かないの!」

 ノンは鍵から手を放して、隣の扉に向かった。俺は空いた鍵を力の入る左手で握ってみると――凍り付いたかのように、ひねることができなかった。確かに、利き手ではないし、それほど力がある方ではない。しかし、毎日のように開け閉めされているであろう昇降口の鍵を開けることができないほどに非力だとも思っていない。さっきからおかしな事ばかりが起こっている。どれもこれも、常識という認識の外側だ。……一体何が起こっているというのだ?


「やらせてください」

 近野が俺に代わって鍵を開けられないか確かめてみる。しかし、彼女にもこの重い鍵はどうすることもできないようだった。

 ノンは手あたり次第に鍵を触ってみたようだが、どれもうまくいかなかったらしい。どうなってんの、と悪態をつくと、廊下の方に戻っていく。


「なあ、ノン、これって……」

「あたしに聞いて答えがでると思う? ……鍵が開かないなら、あそこしかない」

 廊下に戻ったノンは、階段の方へと走っていく。行き先はもちろん、俺たちがこの校舎に侵入するために使った女子トイレだった。俺が追いかけてトイレの扉を開けるころ、彼女はとっくに窓にたどり着いていた。俺の記憶が正しければ、窓は開けっぱなしにしてきたはずだ。だから、鍵が開かなかろうと、問題なく逃げ出すことができるはずだった。


 しかし、ノンの様子を見るに、そう簡単にはいかないようだった。窓はぴったりと閉まっており、彼女はまた、鍵を握って格闘している。俺の記憶は、先ほどから混乱しているのか、二つの映像を再生していた。


 一つは、俺とノンが二人でこのトイレに入ってきた映像。もう一つは、俺とノン、そして近野の三人でこのトイレに入ってきた映像。二つとも、確かに実在したような気がして、おかしな気分になる。

 俺たちが通った後に鍵を閉めた人間がいるのなら、それができたのは近野くらいしか思いつかない。だが、不気味な存在から逃がしてくれたようにも見える彼女が、こんなことをするのだろうか……?


「ノン、やっぱりその窓も……」

「見りゃわかるでしょ。開かないの。……昨日は、簡単に開けられたのに!」

「今俺たちは、校舎に閉じ込められてるってことか?」

「……そういうことになるんじゃない」


 冗談だろと言いかけて、やめる。冗談ではないことは、俺もノンも、そしてきっと近野も良く分かっている。そうなれば、次に取れる手段は一つしかない。

「こちらの校舎は危険かもしれません。……なるべくあの教室から離れましょう」

 近野が言うと、ノンはこちらに向き直って言う。

「……特別教室棟へ」

 そう言うと、ノンは俺と近野の横をするりと通り抜け、渡り廊下へ向けて駆けだした。


 枝高には教室棟と特別教室棟の二つがあり、その二つは渡り廊下で繋がれている。入学してからすぐに通わなくなった俺はほとんど特別教室棟に行ったことは無いが、化学室や家庭科室、美術室や音楽室などといった教室が並んでいたはずだ。


 ノンは渡り廊下の先にあった扉をスライドさせようとするが、やはり鍵が閉まっているようで、それは叶わなかった。俺が到着する頃には隣の教室に着いていたようで、そこのドアはスライドすることができたようだ。……あの妙な存在に出くわしてから、初めて開いたドアだった。


 見れば、初めに手をかけた部屋の入り口には家庭科室と、今ノンが飛び込んだ部屋には書道室と書いてあった。家庭科室に鍵がかかっていて、書道室の鍵が開いていた……というのは、通常の状態であれば納得できる話ではある。しかし、先ほど体験した不思議な現象のあとだと、これが偶然なのかそうではないのか、よくわからない。


 何かが待っているかもしれないと恐れながら入った書道室は、拍子抜けするほどに静かだった。

 ノンは書道室の窓を開けようとしていたが、その試みも失敗に終わったようで、窓のそばに腰かける。少し上がった息を整えると、俺と近野に向けて呟いた。


「色々なことが起こりすぎて、何から話せばいいかわからないけど」

 彼女はここ数分の間に起こったで出来事を整理しているのか、少しの間俯いて、次の言葉を慎重に選んでいた。

「これはあたしがおかしいのかもしれないけれど。……自分の記憶が、信じられない」


 ノンは顔を上げて、こちらに目を向ける。

「あたしの記憶では、女子トイレから三人で枝高の中に入った。あたしと、尾先と……里咲で。でも、あたしはこうも覚えている。アンタが誰かを探しに枝高に来ていて、その誰かが、アタシの知らない人間だったっていうこと。そして、そいつの名前は……」


 ノンが、ちらりと近野の方を流し見る。

「近野里咲、だよな」

「何か間違っていることがあったら言ってくれない? その方が楽なんだけど」

「……いや、俺もノンと同じような記憶を持っている。三人で校舎に入って、A組の教室に行った。そして、そこでひどくショックを受けたような記憶があるんだ。……それは、近野の座席が教室になかった、という内容だったと思う」


「……本当は無いはずの記憶が、自分の中にある……か。そういえば、ながめがそんな話をしてた。学校で妙な怪談……『影人間』の噂を聞いたけど、誰から聞いたのか覚えていないって」

「そういえば、然人もそんなこと言ってたな。それを聞いたときは、ながめの冗談なんじゃないかって思ったが……それに」

「それに?」

「……教室に座席がなかったことを考えれば、近野という存在が、本当はないはずの記憶……なのかもしれない」


 近野が助けを求めにやってきたあの日、俺はしばらくの間、彼女の存在を思い出せずにいた。当時は、変化してしまった彼女の外見のために、あるいは枝高に関す記憶が少なすぎたため、思い出すのが遅れたのだと考えた。しかしその時も、先ほど教室で会ったときと同じく、彼女の瞳が妙に鋭く感じて、その後、彼女の自己紹介を思い出したのだ。思えばその後会った然人も、近野のことを思い出すのに少し時間がかかっていた。


「……近野、聞かせてくれ」

 俺は、改めて近野の方に向き直り、語りかける。……教室であんな体験をしてしまったからには、これ以上どんなことが起ころうとも、不思議に思うことはないだろう。


「お前が一体何者で、俺たちに何をしたのか、そして……今この学校で、何が起こっているのか」

 近野は少しの間考えているようだったが、やがて観念したのか、パーカーのフードを脱ぎ、しょぼんと垂れた狐耳を露わにした。


「近野里咲というのは、私の本当の名前ではありません。……そうです、私は狐。尾先くんを化かしに出た、化け狐というやつです」

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