7 存在のあり方
昔の人間は、確かに狐に化かされたことがあるのだろうと、近野の話を聞いていて思った。
誰かに会ったはずなのに相手にはその記憶がないとか、土産をもらったはずなのに家に着くころには何も持っていないとか、存在しないはずの相手に恋をしてしまうだとか、そういった記憶の祖語というものに関しては、少なくとも説明が付きそうだった。
「私という存在がいたと、尾先くんや然人くん、それから……ノンさんにも思っていただくことにしたのです。……この眼で見つめれば、なかったはずの記憶を植え付けることができますから」
小さく震えながら語り出す近野の体は、いつもよりもずっと小さく見えた。
「どうして、そんなことをしたんだよ」
「……」
近野はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げると話し出した。
「山の中で花火をしている人たちの声が聞こえて。家に一人でいる人間がいると話していたものですから。これはちょうどいい相手がいるとそう思ったのです。……化かすのは、狐の
「然人は確かに、俺が学校に来ないのを心配していた。……花火の夜だって、きっとノンたちとそのことを話してたんだろう。……そうか、それで……」
俺はもう、苛立つ気も起きなかった。あの日、あの時、近野を招き入れるという選択をしたのも俺だし、そのあと家でかくまうといったのも俺だ。……また俺は、自分の選択を後悔することになったのだ。
「『影人間』の件もそうです。……付近に、ちょっとした霊が出る場所があったものですから。尾先くんを連れ出して、怖がらせてやろうと思ったのです。……枝高の制服を着た人にその噂を吹き込んでおけば、いつか噂を探すことをお願いした然人くんにも伝わると思って。……あんなにも早く、彼に伝わるとも思いませんでしたが」
「……アンタが流したのね、あの噂」
どうしてかとても不機嫌そうに、ノンが話した。そういえば彼女も影人間の話を聞いたことがあるみたいだったし、あの道は確かノンも枝高への行き返りで使っているはずだ。ひょっとしたら、とばっちりで怖い思いをしたのかもしれない。
「っていうか、今ちょっとした霊が出るってそう言った?」
ノンが慌てて問いただそうとするが、近野は動じない。
「……はい。あの場所では、しばらく前に交通事故があって。……そこで亡くなった女の子の霊が、今も遊び相手を求めて、ときどき顔を出すのです。そして、それが今、この枝高で起こっていることとも、ほんの少しだけ関わりがある……と思います」
「待って。霊がいるって前提で話を進めないで。……あたしは、アンタがこの期に及んでまだ何か、あたしたちを化かそうとしているようにしか思えないんだけれど」
ノンがじっと近野の方をにらみつける。近野はほんの少しだけ目を逸らして、それでも、淡々と言った。
「……そう思われるのも無理はないと思います。ですが、それ以外に先ほど教室で出会ったあれを、どう説明できますか?」
「……っ」
言葉に詰まるノン。俺は右腕を抑えながら、事実を認めたくない心が白旗を上げるのを感じた。……あの跳躍に、あの攻撃。それに、四月に起こった赤い床事件のことも合わせて考えれば、近野が言うように、常識では考えられない何らかの力が働いていると考えるのが正しいだろう。
「……わかったよ、近野。いや、正確にはわからないことばかりだが、近野の言うことを前提にしないと、説明がつかないことが多すぎる。……それで、あれは近野のコントロールが効く何かではない、ということだよな」
「……はい。確かに『影人間』は、私が枝高の生徒に流した噂です。しかし、同時に然人くんが持って帰ってきてくれた『四百十九人目の噂』は、私の知らないものでした。然人くんは私が学校で目撃された姿だと勘違いしていたようでしたが、夕方の校舎に出没する、という話でしたので、それが勘違いだということはすぐにわかりました。私は、町中をうろついてはいましたが、校舎内にまでは入っていませんでしたから……」
「さっき教室に現れたあれは、あたしたちの言う『四百十九人目の枝高生』であり、アンタとは別のものってわけよね。……それじゃあ、やっぱり」
「……いわゆる、悪霊になってしまった霊だと思います。よほど強い想いか、あるいは偏執的な思考のもとに亡くなった方なのかなと。……ノンさん、あなたは噂の詳しい内容をご存じなのですね」
「ええ。……ただ、今日のあいつはあたしが知っている噂のそれとは、少し違う。……学校から出られなくなるなんて話、聞いたことないし」
ノンは背後の窓の鍵をいじってみせる。しかし、相変わらずそこは開かない。俺も隣の窓で試してみるが、昇降口のときと同じく、それはびくともしなかった。
「確かノンの話だと、例の『四百十九人目』が出現するのは四時二十分だけで、四時二十一分になると消えるんだろ。……だけど、鍵が開かないという状態だけが、その時間を過ぎても残り続けるなんてことはあるのか?」
「霊による影響が残っているのだとすれば、霊自体も残っていると考えるのが自然だと思います。……まだあの教室にいるか、どこか外を出歩いているかもしれません。……今日に限ってそのような状態になっていると考えるのではなく、昨日までと何が違うのかを考える方が良さそうです」
次々と状況を整理していく近野。……先日までの、ただアワアワと焦っていた彼女とは印象が異なった。
「枝高に俺がいる、ってのは関係あるだろうか」
「あの霊が落ちてきたっていう『赤い床』の現場を見たのもアンタだけだし、それはあり得るかもね」
「……どうでしょう。可能性はないとは言えませんが、もしそうなのでしたら、尾先くんがもともと学校に通っていたころも同じ条件だったはずですから……。それよりは、もっと何か、亡くなった霊の、霊としての概念を強めるような何かがあったのか、物理的な依り代が表に出てきたか……」
「依り代?」
あまり聞き慣れない言葉に、俺は思わず反応する。意味くらいは何となく知っているが、現実世界であまり聞くような言葉ではなかったからだ。
「古くは、神木や御岩……例えば、トンネル下のあの霊の場合、お供えされる花が依り代となっています。毎年、あの季節になると彼女の好きだった花が献花されるらしく、その花を拠り所として彼女の霊は具現化するんです。……ですから今回の場合、彼女がこの学校に残していた何らかのものが、昨日とは違う状態になったのかもしれません。……ノンさん。何か、心当たりはありませんか?」
「依り代。……依り代ね。それは、きっと囚字エリがこの学校に残したもの……」
話を振られて、ノンは少し考える。
「……そういえば、遺書は見つかっていなかったって言ってた。あんなノートを書いて生きた証を残したいなんて思っていた人間が、死ぬ前に遺書を残していないなんてこと、あると思う……?」
「遺書の隠し場所に、アテがあるのか」
「……遺書は隠すものなのか、というのは疑問が残るけど。それでも、この時までに見つからないくらい盲点の場所で、事件現場に近い場所で、昨日と今日で状況が異なっている場所なんて、一か所しか考えられない」
ノンは窓枠から飛び降りて、俺と近野の前を横切り、廊下に顔を出した。
「……昨日、あたしがあいつを追いかけて上った……屋上そばの掃除用具入れよ」
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