幕間2 写真がとらえるのは真実だけ?

1 恐怖心は隙間から染み込んで

 じゅわあ、じゅわわわぁ。

 サイダーのボトルを傾けると、心地のいい音が聞こえてきた。


 グラスから、泡がぱちりと弾けて、ぬるい水しぶき……ううん、サイダーしぶきが手の甲に飛んでくる。

 氷はとっくに溶けてなくなった。グラスを持ち上げても、涼しい音は鳴らない。惜しいなぁ、からん、からんと氷の音が聞こえれば最高だったのに。


 通話の向こうの彼女は、普段からそうだけど、今日はまた一段と機嫌の悪そうな口ぶりをしてる。

 肩をいからせながらスマホをぎゅっと握っているあの子の姿を想像して、危うく肩とほっぺたの間に挟んだスマホを落としそうになった。あぶない、あぶない。口元が緩んでる。


 暗い部屋で、私はタブレットの光を頼りに電気を付けようかなと立ち上がってみた。ずいぶんと長話をしていたみたいだから、氷も溶けちゃうよね。


「ながめが妙なこと言うから、麗もその気になっちゃったんじゃない」


 電話の向こうの声は、ずいぶんとご立腹。私は笑いをこらえながら、つい尋ねてしまう。


「それでぇ、行かせてあげたのぉ? その『本見』とやらには」

「バカバカしい。行かせるわけないでしょ」


 奥之院おくのいん和佳のどかの不快そうな反応が、耳に返ってきた。

 予想通り。頭に描いた台本そのままだったので、スマートフォンを手に持ち替えた。この調子だと、絶対にスマホ落としちゃうよ。


 いかに白い歯を見せたくなるような状況でも、声や表情に出さないのは私の得意とするところ。

 だけど、こうも思い通りの反応が返ってくると、この表情を保っていられるか怪しくなる。それに、自分の部屋っていうガードの弱くなる場所にいるとさ、笑いの堤防がどこかで決壊しちゃうかもしれないからね。


 私が今日「影人間」の話をしたから、奥之院は帰ってからもひどく不機嫌だったみたい。

 不気味な噂話、心霊体験、怪談……。

 感受性の高いあの子にとって、これは刺激が強すぎたようで。それが自宅近くの話だっていうんだから、なおさら。


 私は窓の外の暗闇を流し見ながら、ぱちり、と電気のスイッチを入れた。


 奥之院から聞くところによると、その噂を伝えたもう一人である九重ここのえ然人ぜんとは、この暗い中たった一人でトンネルに行ってるんだってさ。


 ベッドの上に腰かけて、九重の心に思いを馳せてみた。

 奥之院シスターズを誘いながらたった一人、哀れにもトンネルを歩かなきゃいけない九重……可哀想に。


 うららはともかく、和佳の方は行ってあげればよかったのにな。

 そうすれば、心霊スポットを二人で仲良く探検したっていう、青春らしい思い出ができたろうに。


「何度も言うけど。アンタが妙な話を持ってこなきゃ、こんなことにはならなかったの」

「ごめんねぇ。……でも私は、奥之院に話して良かったと思ってるよぉ」

「……は……」


 スマホの向こうから、苛立つような吐息。

 そんなに嫌なら、通話をやめてしまえばいいのに……。


 ううん、できないんだよね? 奥之院。


 奥之院は、さっきからずっと同じ話題を繰り返していた。

 無意識のうちに、考えを進めたくないと宣言しちゃってる。強がっても、怖いって気持ちは消えない。もし立ち止まって話題が尽きてしまったら、噂話を思い出して考え直す時間が生まれちゃう。

 だから、自分の尻尾を追い回す犬のように、その場をぐるぐると回り続けるしかないんだよね。


 でもね、奥之院。思考の扉を厳重に閉めて恐怖心を締め出そうとしても、それは染み出してくるんだよ。

 鍵をかけて閉じ籠っても、液体みたいに、じわり、じわりと、扉の隙間や鍵穴から流れ込んでくるから。

 奥之院は必死で目張りをしようとするだろうけれど、意地の悪い私は、目張りされたテープをほんの少しずつ、ぺりぺりって剥がしていく。


「だって、私がこの噂を口にしなかったらぁ、何の警戒もなくあの高架下を歩いていたことになるでしょう? それは、噂を知って歩くよりも、まったく危険なことだとは思わない?」


 スマホの向こう側は、返事をしなかった。


「知らないことに対して、心構えはできないよねぇ。でも知っていれば、例えば後ろを振り向かないようにするとか、暗い時間帯には立ち入らないようにするとか、対策を取ることができるようになると思うしぃ」


「それは……っ。確かにそうかもしれないけど」


 奥之院の歯切れが、急に悪くなっちゃった。


 言うまでもなく、こんなものは詭弁。

 怪談を意識するということは、まったく防御を緩める行為に他ならない。

 有象無象がはびこる心霊トンネルだって、何も知らない人間からしたらただの通り道でしかない。


 心霊話が好きだなんていう人たちは、あえて意識することでありもしない弱点を創造し刺激して、そのすれすれを未知の何かが行き来するのを夢想して楽しんでいるだけなんだ。


 例えるなら……そう、かさぶたが固まってきて、少し痒みが出てきて、手をかけてみたくなるとき。

 怪談の楽しみ方っていうのは、そんなかさぶたを剥がそうとするときの感覚に似ているんじゃないかな。


 もし剥がせば血が流れ出るかもしれない。

 けれど、傷が塞がっていて綺麗に剥がれるのであれば、それはきっと快感になる。そんなことを考えながらかさぶたに爪の先をかける……放っておけば、必ず綺麗に剥がれるはずのその場所に。


 つまり私が奥之院にしたのは、そのかさぶたの存在というものを彼女に伝えたという、それだけのこと。


「実はねぇ、奥之院。私も少し、こんな話をして悪いなと思ったんだよぉ」


 少し悪かったかな、という気持ちが伝わるように、神妙に話し出してみると、スピーカーから聞こえてきたのは鼻を鳴らす音だった。


「……ハッ。アンタのその言葉を信じろって? そうするなら、あたしは選挙権をもらった最初の投票で、最もご立派で実現性の低そうな公約の政党に投票してやる。それが一貫性ってものよ」


「……つまりそれは、清き一票を私に捧げてくれるということだねぇ?」


「耳障りのいい言葉に騙されるかって言ってんの!」


 話が急に大きくなっちゃった。

 突拍子もない例え話。あまりに自分の考えから外れた話をされるとこういう話を始めちゃうのが、奥之院の茶目っ気があるところだよね。


「まぁまぁ、これからの話を聞いて損はしないと思うよぉ。実は私あの後ね、自分なりに色々と調べてみたんだよぉ。十五年前、あのトンネルができたころ……」


「……待って!」


 奥之院が怖がる気持ちを少しでも抑えてあげるために切り出そうとしたそのとき、通話の向こうの声が、急にびりっと張った。

 わざわざ集めてきた情報を話すのは今ではないな、なんて思って、少しの間黙ることにした。


 しばらくの間、奥之院は誰かと話しているみたいだった。

 私は手元のソーダを二、三度口に運んで、やっぱりぬるいなぁ、といくらか侘しくなったので、氷を取りに歩き出そうとした。


 でも、足は動かなかった。

 耳が、興味深い単語を捉えたから。


「幽霊……?」


 通話先の声が、そう言ったんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る