6 トワイライトの追走劇

 胸の鼓動がとても大きく聞こえ、他の音が耳に入ってこない……そんな経験は、過去に何度かあった。


 例えば、高校受験。

 覚えていたはずの英語の構文がどうしても出てこない。時間はどんどんと経過していく。どうしても思い出せないのなら次の問題に進めばいいだけだ。だが、喉の奥に構文が引っかかったような気分になり、それができない。

 息が詰まるような、嫌な感覚。胸が押さえつけられているような、呼吸が浅くなっていくような……。


 今のあたしはそんな感覚に支配されていた。状況はかなり違うが、押しつぶされそうなほどの緊張感に似たものを覚える。


 階段に向かって消えていく、女子生徒の影。それを見て少しの間ためらう。

 高校、放課後、女子高生。これらの単語を並べられれば、嫌でもその正体に一つの結論が出てしまう。――四百十九人目だ。


 本来のあたしであれば、見なかったことにしてなるべく早く家に帰るだろう。だが今回は事情が違う。

 友人が――本当にどうしようもないような友人だが――それに突き落とされたという話をしている以上、知らぬ存ぜぬではあたしが納得できない。


 教室を飛び出し、階段の方に向かった。

 その瞬間が訪れる前に心の準備をする。涼子の体験談を思い出した。角を曲がったとたん、こちらに向かってくるなんてこともあり得る。


 あたしは角にたどり着き、そして……息を飲み込んだ。


 えいっと顔を突き出すと、たった一瞬だけ、やはりあたしの目はそれを捉えた。上の階段を折り返すところに、スカートがひらり、と。


 たん、たん、と、上履きで階段を上る音が聞こえた。

 ここまで来たら、もうヤケだ。あたしは一段飛ばしに階段を駆け上がった。踊り場で向きを変える。広がった視界の先に、またしても上の階に消えていくスカートの裾が映った。


 次の階に駆け上がり振り向くと、暗いその空間にまたしてもスカートの裾が見える。今までとは違い階段の照明が消えている。


 そのこと自体は当然だった。

 一年の教室が二階だから、ここはもう三階なのだ。そして、この校舎は三階までしかない。この先に何があるかは知らないけれど、少なくとも一般生徒が立ち入る必要のある場所ではなかった。


 あたしはスカートのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出した。

 いつでも電気が点けられるようにする準備だ。すぐに点けなかったのは、何となく、光で照らしたら怖いものが見えてしまうような気がしてしまったから。


 意を決し、三階の更に上へと向かう階段を上る。先ほどまで聞こえていた自分の物ではない足音は消えていた。立ち止まったのか、それとも……。


 あたしは踊り場にたどり着き、そして……折り返した先を見る。

 下の階から漏れてくる光でぼんやりと構造が見えた。階段の先にあるのは、今自分が立っている踊り場程度の広さの空間と、左右に一枚ずつのドアだけ。


 こんな風になっているんだ、と珍しがるよりも早く、あたしの心臓が凍り付く。


 追ってきたはずの女子高生がいない。


 ざわつく心を無理矢理鎮めて、あたしは慎重に最後の階段を上り切った。踊り場から見えなかった死角に、四百十九人目が屈んでいるということもなかった。


 となると……どちらかの扉の先にいるのか。


 左手の扉はドアの取っ手にチェーンが巻かれており、ゴテゴテとした南京錠が付けられていた。念のため開けようとしてみるが、当然のように鍵がかかっている。

 仮にドアに鍵がかかっていなかったとしても、がちがちに巻かれたチェーンのせいで、人間が通る隙間は作れないだろう。

 となると……。


 あたしは右手の扉を見て、スマホの照明を点ける。この扉に隠れたのだろうか。こちらは左手の扉とは違い、チェーンが巻かれているようなことは無かった。


 だが……扉を前にして、あたしの頭は急に冷えてきて、猜疑心が強く浮かび上がってきた。


 先ほどの子はどうして、こんな逃げ場も無い場所に逃げ込んだのだろう。


 階段を上らずに下っていれば、部活中の生徒たちに紛れてやり過ごせたはずだ。上るにしたって、三階よりも上に行かずに、三階のどこかの教室に逃げ込むか、別の階段まで行き、下っていれば逃げられたはずなのに。

 これじゃあまるで、袋小路にあたしを誘い出しているような……。


「奥之院?」


「わあ!」


 急に背後から声を掛けられ、あたしは腰を抜かして、よろよろと尻餅をついてしまった。そのまま見上げると、そこにはながめの顔があった。


「お、お、脅かすな!」


「いやいやぁ。脅かしたつもりはなかった、いつもと違ってぇ」

「……いつもは脅かすつもりがあるみたいな言い方だけど?」


 能天気な彼女の声を聞いて、少しだけ平静を取り戻したあたしは、そのお礼にちょっとした嫌味を吐く。


「それよりどうしたのぉ、奥之院。いきなり教室飛び出してさぁ」


 ながめの位置からでは、教室後ろの扉にいたときも、階段を上っているいるときも、あのスカートの裾は見えなかったろう。


「……教室であたしたちを、誰かが見てたの。声かけたら逃げちゃって。それで追いかけてきたんだけど」

「奥之院に追われてこんなところまで逃げてきたなんてぇ、ちょっと可哀想になるねぇ」

「どういう意味」

「でも、ここまで逃げてきたってことはぁ、もう逃げ場は一つしかないねぇ」


 ながめはあたしからスマホをひったくり、光を当てながら右手側の扉を躊躇なく開けた。


「……誰もいないみたいだけどぉ?」

「え?」


 ながめの後ろから扉の中を見ると、そこは掃除用具入れのようだった。モップ、箒、バケツ、掃除機、ワックス。……そこはクローゼット程度の広さで、人が隠れられるような場所は無かった。


 死角になっているのは仕切られた棚の上だけだが、高さは十五センチくらいで、人間が入れるようなスペースは無かった。


「嘘でしょ」


 あたしはゾッとする。これは仮定の話でしかないが、もし中に誰かがいたなら、驚きはしただろうが、こんな嫌な気分にはならなかっただろう。


「……ながめ、今何時?」


 ながめは、手にしたあたしのスマホを見て答える。


「四時二十二分になったところかなぁ。……ああ。四百十九人目が現れるくらいの時間だねぇ。ということは……つまり、見たってことかぁ」

「そうは思いたくないけど……そうじゃなきゃこんな暗いところまで来るわけないでしょ」

「それもそうかぁ。……そっちは?」


 ながめは、もう片方の扉を指さした。


「開かなかった。っていうか厳重過ぎでしょ、宝物庫か何かなの」

「……屋上だよぉ」


 ながめの返答にあたしは閉口して、納得してしまう。あんな事件があった後の屋上なら仕方が無い。


 だがそれなら、あの制服の女子はどこへ消えたのだろう。

 どちらの扉にも逃げられないのだとしたら、一旦掃除用具入れに隠れて、あたしが背を向けている間に階段を駆け下りるか、飛び降りるかするしかない。だがどちらにしても、ながめが後から上ってきているのだから、彼女とすれ違わないのは変だ。


 カーテンを閉めてすぐ部室の窓から外を見たら誰もいなかった、という涼子の言葉が脳裏を過ぎった。

 部室の窓であれば、寸前まで寄ったところでしゃがむなり、部室棟沿いに逃げるなりすれば見えなくなる。消えるなんて話はだいたいどれもそんなタネだろうと思っていたが、この状況はそう簡単に説明ができそうに無い。


 ――幽霊。


 そんな単語が口から出かかったが、喉を鳴らしてどうにか飲み込んだ。

 冬場の冷たい空気を思いっきり吸い込んでしまったかのように、全身に鳥肌が立ち、ぶるりと体が震える。

 見間違いではない。確かに階段は暗かったが、無いはずのスカートの裾を見た気になるなんてこと、あるはずがない。真っ暗な山の方に住んでいることもあって、夜目には元々自信があるのだ。


 あたしとながめは、付近の床や壁や天井に光を当て、隅々まで調べてみた。しかし、仕掛けに使えそうなものは何も見つからなかった。


「どうする。帰るぅ?」


 ながめに問いかけられ、あたしは鞄を肩に担ぎなおす。


「……モヤモヤするけど、そうする。あれが本当に四百十九人目で、噂通りなんだとしたら、消えた後は出てこないだろうし」

「だったら、一回教室に寄らせてぇ。電気消してないからさぁ」


 ながめが思い出したように呟く。

 普段、そんなこと気にしないのに。急に省エネにでも目覚めたのだろうか。


「誰か戻ってくるかもしんないし、別に点けといて良くない?」

「いや、先生がさぁ。明日全校停電させて検査するって言ってたでしょ? 最後に出る人は電気消せってさぁ。ほら、私真面目ちゃんだからねぇ」


 確かに、ホームルームで担任が言っていたような気もする。律儀なことだ。

 どうせ誰かが最後に廊下の電気を消して回るんだろうし、どっちでもよかろうに。先生だか用務員だかは知らないが、廊下から手を伸ばして教室の電気を消して回るくらい、大した手間にはならないだろう。


 ……そして、あたしにとっては本当に不幸なことに、一つ思い付いてしまったことがあった。

 そうか、明日は全校停電で、登校禁止なのか。


「ごめん、ながめ。あたし、ちょっとやることがあった。先帰るわ」

「……一緒じゃなくて平気ぃ?」

「どういう意味」


「いや、怖い思いした後だろうからさぁ、私が部活に行くまで付き添ってあげようかなぁって」


 ながめは、いつものニヤリ顔で、楽しそうに語りかけてきた。

 ……絶対に、何か企んでいる。あたしはなるべく平常心に見えるよう、おどけて答えてみせる。


「アンタに付き添われるほど、怖がってないつもり」


「声、震えてる」

「うっさい!」


 あたしは自分でも分かるほど赤面し、ひ弱な声を残して、逃げるように階段を駆け下りた。

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