9 数に宿った意味

 降り出した雨は、俺の長袖のスウェットに、じわじわと染み込んできた。

 掃除用具入れの中に、彼女の遺書はなかった。この幽霊が四時二十分を過ぎても消えない理由が、結局わからなかったということだ。


「ノン、どうして屋上の鍵が開いたんだ……?」

「あたしが知るわけないでしょ。もう、ここしか逃げる場所がなかったから。……あの南京錠、鍵がかかってなかった。この屋上が囚字エリの自殺した場所だということを考えると――ひょっとしたら、昇降口の時とは逆に、ここの鍵は開けられていたのかも、なんてね」


 冗談めいたような話をするノンの声は、決しておどけてなどおらず、むしろ張りつめていた。教室のときとは違い、ここから先にもう逃げられる場所はないのだ。逃げるには、一つしかない扉から教室棟の中に戻るしかないが、そこにはあいつが陣取っている。


 逃げるか、元を断つか。選択肢は、二つに一つしかなかった。踏み込みもせずに飛んでこられるあれのことだ。逃げるのはあまり現実的ではない。かといって、元を断つ……昨日と今日で変わってしまったものを探し出して、それを昨日以前の状態に戻そうという考えは、唯一の取っ掛かりであった掃除用具入れの中に何もなかったため、不可能のように思えてしまった。


「近野、依り代以外にも、何かあれが強まってしまう原因について……何か言ってなかったか」

「ええ……しかし、それはあまりにも難しいというか、一晩ではすぐに達成しにくいものというか……」

 近野はこちらを向き直った霊を見ながら、ぼそりと続けた。


「……書道室でも少しお話しましたが、霊としての概念を強めるような何かがあったのなら、活性化する時間が伸びてもおかしくはないと思います」

「何かって……なんだよ」

「例えば、ですけど。踏切事故で亡くなった方が霊になって、その後立て続けにその踏切で事故が起こった、これはあの子が黄泉の国へ招いているに違いない……なんて話になったとします。そうすると、踏切の霊は人々の認識の力を借りて、力を大きくするのです」


「霊ってのは、ずいぶん詩的な生き物……いや、死んでるから生き物じゃなくて。存在ってわけ?」

 ノンが口をはさむ。

「まあ、毎日四時二十分に現れるなんていう時点で、そういう概念に縛られていてもおかしくはないか」

「それに似た何かが、昨日から今日の間にあったってことか?」

「……はい。ですが、それはやはり、一晩では難しいものだと思いますし、やはりどこかに依り代があると考えた方が……」


 ここまで話したところで、廊下にいた霊の様子がおかしいことに気が付いた。いや、霊の様子に正常もおかしいもないのかもしれないが、それは先ほどまでのように上の空で、ふんわりとした印象ではなく、こちらをじっと見ているように思えたのだ。……あの、教室で向かい合ったときのように。


 ぽたり、と頬に大粒の雨が落ちてきて、あごの先まで伝っていった。


 その雨粒がコンクリートの床に落ちるか、落ちないかくらいのときに、背後で、金属が何かと擦れるような音がした。その瞬間、俺はふと振り返ってしまった。

 屋上は緑色の高いフェンスで囲われている。当たり前だ、いくら人が出入りできなくなっているとはいえ、教育機関の屋上に何の備えもないというのは考えられないからだ。……ただ、一部分を除いて。


 金属が擦れる音は、そこから聞こえてきた。それはおそらく、管理や清掃などで使うのだろう。……フェンスの外側に出るための、金網でできた扉だった。風に吹かれて、その扉がこちら側に開いてきたのだ。施錠されていたであろう鍵は、ぽとりと床に落ちている。今のあの幽霊にとって、鍵などは問題にならないらしい。


 そして、音に気を取られて振り返ったその一瞬が、俺たちの命運をきっと分けたのだと思う。教室で俺に飛びかかってきたあとは、比較的緩慢な動きを見せていたあの幽霊に、油断をしてしまっていたのかもしれない。

 ハッと気が付いて向き直った時には、もう遅かった。あの幽霊は、ノンの方に向けて地面を這うように移動していた。


「ノン!」

 俺と同じように音につられていたのだろう、こちらを向いていたノンの所に、霊が飛びつこうとしている。

 その時、視界の外から、もう一つの影が飛び出した。……近野だ。教室でそうしたように、彼女は霊を突き飛ばそうと両手を前に構えていた。


 しかし、二度目は無かった。


 何の反動も予備動作もなく移動できるあの霊は、空中を飛びながら少しだけ軌道を変え、飛び掛かってきた近野の両手を交わして、懐に飛び込む。すると、先ほど俺の右手がそうなったように、近野の体をするりと通り抜けた。近野は飛び掛かった勢いそのままに、向こう側へと飛んで行ってしまう。さらに霊は、近野をすり抜けた勢いのまま、ノンの腹から下も通過していってしまう。


 近野は受け身を取ることができず、そのままコンクリートの上を転がり、ノンはバランスを崩してその場に倒れ込んでしまった。びしゃ、とそれぞれ水しぶきを上げる。

「痛……っ!」

 ノンの手は難を逃れたらしく、彼女は辛うじて顔から倒れ込むということは無かった。しかし様子を見るに、下半身は力が入らないようだった。近野の方はもっと酷く、体全体をすり抜けられたように見えたため、苦悶の表情を浮かべながらも指一つ動かすことはできないようだ。


 一瞬で、二人の足が奪われてしまった。

 俺一人で、彼女たち二人を連れて逃げることはできるのか……? いや、それはあまりにも難しい。俺も、右手が言うことを聞かないのだ。


 教室で対峙したときのように、俺はもう一度あの霊と向き合う。……すると、やはりこの存在が、この世のものではないということを強く感じてしまう。雨粒が降りしきる屋上で、その目玉にも降っているはずなのに……彼女は、瞬き一つしない。びしゃびしゃに濡れた枝高の制服が、びたりと、その生気のない肌に張り付いていた。


 どうする。……倒れたのが一人であれば、なんとか引きずって逃げることもできるかもしれない。でも、二人は……。頭をふっとよぎる、近野という存在。化け狐だという彼女を、俺は救う必要があるのか? 彼女を差し出せば、ノンだけを負ぶって逃げれば、俺はとノンは助かるかもしれない。


 しかし……。

 俺には、その決断をすることができなかった。彼女は、教室でも、つい先ほども、俺とノンを助けようとしてくれた。もしも彼女を見捨ててしまったら、俺はまた、新しい後悔の種を抱えてしまうような気がしたのだ。


 こうなったら、とにかく考える時間を作ろう。昨日はきちんと四時二十分に消え、今日はいつまでも消えず、枝高の鍵にまで影響を与えるほどにまで、この霊が強大化してしまった理由……!

 俺がこの霊と対峙するのは、初めてではないのだ。そう何度も、あの攻撃を食らってたまるものか。


 少しずつ強くなる雨脚に、瞬きをしそうになったその時。……そいつは、今まで通り予備動作もなく、こちらに飛び込んできた。俺はそれを見て、左に大きくステップを踏むような形をとる。先ほど階段の踊り場から屋上へ飛び出た時のように、横方向の大きな動きには対応できないのかもしれない、そう思ったからだ。幸運にも、その予想は当たっていた。


 霊は、先ほど俺がいた空間を高速で通り抜けていく。俺はそれを横目に見て、首だけ後ろに振り返った。勢いを持ったままの霊は、そのまま前に進んでいく――と思ったのだが、そんなことはなかった。

 俺がいた場所を通り過ぎた霊は、その場でぴたりと止まり、こちらに向かってすぐさま切り返してきた。俺は慌てて、もう一度大きく横にステップを踏もうとした。もう一度左に大きく飛ぶと、壁際に追い詰められてしまう。……今度は、右に!


 しかし、そう何度もうまくはいかなかった。俺は右腕から先に力が入らないのだ。人間のバランスというものは絶妙なところで保たれているものらしく、また先ほどからの雨で屋上の床が濡れてしまっていたこともあり、右足でうまく着地することができず、俺はその場に倒れ込んでしまう。

 筋力不足が見て取れるような体だ、こんなことなら然人に言われた時点で、きちんと筋トレでもしておけばよかった……。


「尾先!」

 ノンの悲鳴にも似た叫び。……もろに頭を打つような格好になった俺は、ほんの少し気を失いかける。その隙を、霊が逃すはずもなかった。

 俺を覗き込むように、幽霊の顔が視界を覆う。……先ほどから何度も見ている、生気のない者の、まるでお面のような顔のパーツ。両足が、何か冷たいものに触れられた感じがした。


 首を持ち上げると、霊が俺の両足を掴んで、引きずり始めているのが見える。もう、足に力は入らなかった。なぜ、こんなことを……? その答えは、霊が俺を引きずっていく先にあった。

「尾先くん、その先は!」


「扉かよ……!」

 先ほど、金属が擦れる音がして、こちら側に開いたあの扉だ。この霊、ひょっとして、まともに動けない俺をあそこから突き落とすつもりなのか……? 唯一動く左手で抵抗をする。勢いこそ弱まりはするが、ずるずると引きずられる力をすべて相殺するには至らなかった。


 このままでは、あと一分もしないうちに、俺はあの扉にたどり着いてしまうだろう。

 なぜ、この霊はこんなにも強大化してしまったのか。引きずられながら、片腕で抵抗しながら、俺は考える。


 ノンが集めてきてくれた情報と、近野が霊の正体ではなかったということから、あれは囚字エリがこの世に残した怨念と考えていいだろう。それは四、二、〇という数字の並び、それから四時二十分に現れるという符合、そして「赤い床事件」が起こった日付からも間違いがない。

 では、なぜ、今日は。今日だけは。そのルールを飛び越えて、長い時間存在できているのだろう……?


 昨日と今日の大きな違いは、停電検査があったためか先生もすでにおらず、生徒も俺たち以外は誰にもいないということだ。ノンと、俺と、それから化け狐の近野と……。その三人がいることで、何かが四、二、〇という数字の並びを補強してしまったりしたのだろうか……? あの四十九人目の枝高生を。


「……あっ!」

 その瞬間、俺は閃いてしまった。俺たちが今日、この枝高にいることと、四二〇という数字が強まってしまったことを紐づける、ある一つの仮説を……。


「……そうか、そうかもしれない……!」

 俺は曇天を見上げて、ようやく気付く。

 この幽霊が、物理的な依り代ではなく、概念に紐づくのだとすれば。


「すでにこいつは、……!」

 俺は扉に向かってじりじりと引きずられながら、二人に聞こえるように叫ぶ。


「俺とノンは、近野が枝高生だという認識を植え付けられていて……そして同時に、枝高に在籍する四百十八人の中に、近野里咲という人間がいないということも理解してしまっていた。つまり、俺たちにとっては、近野里咲という存在が枝高の四百十九人目の生徒になってしまっているんだ……。だから、この幽霊は、囚字エリは、俺たちにとっては、四百二十人目の枝高生になってしまったんじゃないか……?」

「……そ、そんな……!」

 近野のか細い声が聞こえた。


 四、二、〇の数字列。彼女が偏執的に求めていた数字。……だから今までは、この数字が日付や時間として現れたときにしか、囚字エリは出現できなかったのだろう。しかし、彼女自身を表す概念が、四百二十人目という、その数字自体になってしまったのだとすれば……? その霊がより力を持つことは、不思議なことではないのかもしれない。


 背中と冷たいコンクリートが擦れる。蒸し暑い淀んだ空気と冷えた床に挟まれて、気持ちが悪い。そして、少しずつ、少しずつ……俺は、屋上の縁へと近づいていくのを感じた。

 原因らしきものがつかめたところで……今の俺にできることは、ほとんどなかった。残っている左手で、精一杯の抵抗をすることくらいだ。


 俺は赤い床事件を思い出す。……あの時この霊が落ちてきたのも、きっとこの場所だったのだろう。このまままっすぐに落下すれば……。俺はあれくらいの赤い血をまき散らすのだろうか。

 俺は近野を迎え入れたあの日を思い出す。あの頃俺は、自暴自棄になっていた。あのまま干からびて死んでもいいかもな、などという考えも頭をよぎっていた。……その考えが、今現実のものとなってしまうのだろうか。


 遠くに、ノンの声がぼんやりと聞こえる。しかしそれは、雨音にかき消されて、ほとんど俺の耳には届かなかった。もう、どうしようもない……。抵抗もむなしく片足が、屋上のフェンスの外側へと続く扉を潜り抜けようとした、まさにその時だった。


「尾先くん!」

 近野の大声で我に返る。彼女はその場から動けず、こちらをまっすぐに見ていた。


「尾先くん、あなたがその答えにたどり着いてくれたおかげで、私には、取ることのできる手段があります……! この霊が、私を足して四百二十人目の枝高生になってしまったという概念によって強くなってしまったのであれば、やることはたった一つです。……そして私はその選択を、迷うことなく実行できます」


 近野の目が、妖しく、金色に光る。……そうだ、これは……近野が、何か俺たちの記憶に干渉しようとしているときの目つきなんだ……。

「ノンさんも、こちらをよく見てください。……お二人の記憶の中から私の記憶を、消し去ります。そうすれば、きっと……その霊も、消えてしまうはずですから」


「近野! そんなことをしたら……」

 俺の話を遮って、近野は続ける。

「何の問題があるでしょうか……? 元々、私は存在しないはずの記憶。化け狐によって植え付けられた、偽りの記憶じゃありませんか。私の記憶がなくなったとしても、お二人には何の影響もないはずです」


 淡々と告げる近野の言葉に、俺はその言葉に「でも」と楔を打ちたくなる。

 先ほど、近野が俺の家を訪れたときのことを思い出した。あの時の俺は確かに、干からびてしまってもいいと思っていた。しかし、今はどうだ。近野がきっかけを作ってくれて、然人やノンと話す機会ができて……そんな後ろ向きな気持ちを、少し忘れかけていたのではなかったか。


 彼女が来てからの毎日は、昔近里にいたときの毎日のように、少しだけ彩豊かなものだったと思う。友人との会話、不思議なことを究明するための、ちょっとした冒険……。


「近野、俺は……お前と会って、きっと救われたんだ。仮にお前が、俺のことを騙そうとしていたのだとしても、化かそうとしていたのだとしても、それだけで、俺は救われたんだよ……!」


 絞り出すような俺の言葉を聞いて、近野は、にっこりと笑った。

「あーあ。……こんなんじゃ、化け狐失格ですよ」


 そこまで言うと、俺の視界がとらえていたはずの、半分狐の女子高生の輪郭は溶けてなくなった。……代わりにそこにいたのは、大きなパーカーにくるまれた一匹の狐。それはパーカーにくるまれたまま駆け出すと、あっという間に階段の方へと消えて行ってしまった。


「犬……?」

 ノンがぼんやりと呟くと、俺の腰が地面に叩きつけられた。ばしゃり、と大きな水しぶきが弾けて、中庭へと降り注ぐ。


「尾先!」

 ノンが立ち上がり、こちらに駆けてきた。気付けば、俺は足の先が宙に放り出されている形だった。先ほどまで、俺は確かに囚字エリの幽霊に足を引っ張られていた。しかし、今視界に入ってくるのは暗い曇天ばかりで、あの無機質な顔は目に入ってこない。


「何だかわかんないけど……助かったみたいだな」

「……そうね」

 ぽつぽつ、と生ぬるい雨が、頬を伝う。びしゃびしゃになったスウェットは、もう水を吸いすぎていて、かなりの重さになってしまっていた。

 これで、ひとまずは危機が去ったのだろうか。……結局のところ、どうして囚字エリが消えたのかはよくわかっていない。しかしどうしてか、今日に限っては、もう襲われるということは無いような、そんなおかしな確信があった。


「もう、こんなのはこりごりよ。……誰もいない校舎になんて、二度と侵入したりしない」

「……その方が、いいかもしれないな」

「とりあえず、帰ったらあのクソ兄貴が持っていた囚字エリのノートをお焚き上げにでも回すことにする。……やっぱり霊が出て、妙な悪さをしているのはわかったしね」


 囚字エリが消えたことによって、先ほどまで力の入らなかった右手と両足には力が入るようになっていた。この様子なら、昇降口の鍵もきっと開いているだろう。

 俺はその場から立ち上がると、校舎内に戻った。


 ふと、屋上を横目に見る。じとじとと、嫌な感じのする雨が降り続いているその場所に、俺は何か大切なものを忘れてきてしまったような気がした。


 しかし、その気持ちの正体はわからないままだった。……雨によって洗い流されてしまったかのように。

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