7 きな臭い山道
東京に住んでいた頃は、夜であろうとどこかが明るく、空を見上げれば都会の明かりに照らされて雲が見えていた。
だが今は、見上げても街灯や電線やマンションのベランダが見えるわけもなく、両脇から伸びてきた木々が空を覆い隠している。
日没後しばらくすると、裏の山の道はたとえではなく、まさに「一寸先は闇」になる。頼りの月も厚い雲に隠れてしまい、拠り所は手元の懐中電灯だけだった。
風の音に葉が、枝が揺れるたび、そちらに懐中電灯を向けては、おかしな影が見えないことにちょっとした安堵を覚える。
結局、近野が登ったのは右の道……つまり、尾先家の私道ということだった。
この道はジジイが山菜取りなんかに使用していた道のようだが、実際にはどうだったのかはよく知らない。
俺が最後に登ったのは小学校六年生の夏休み、父親に連れられて里帰りしたときだったと思う。然人や、ノンらと一緒に遊んだのだが、あれは当然昼間だった。
「足元気をつけろよー、段差、均等じゃなさそうだぜ」
草が生い茂った地面の段差を照らしながら、先頭をずんずんと歩く然人がそう言うと、真ん中の近野が答える。
「そうですね。……日暮れ直後よりも暗くなっている気がしますし」
「だよなあ。真夜中にこの道歩くの、ひょっとするとおれ達が歴史上初めてなんじゃないのか? そう考えたらテンション上がってきたな!」
少しずつ早足になる先頭は放っておき、しんがりの俺は道の左右に光を当てながら、妙なものがないかを探していった。
頼りない懐中電灯の光が当たる部分は狭く、必然的に視野も絞られるので、かなりじっくりと探しているつもりだ。だが、つい数時間前に近野があんな目にあったとは思えないくらい、おかしなものは見当たらなかった。暗い道を歩いているという事実の方が、よっぽど恐ろしい。
そうして少しの間歩いていると、道の右側に、雑草が広く倒れている場所を発見した。
「近野、ここって、もしかして……」
然人につられてせかせかと歩いていた近野に声をかける。彼女は急いで戻ってくると、俺が照らしている部分をじっと見た。
「あ。たぶん、ここだと思います。私が気を失って、倒れてしまった場所……」
「何でスルーしたんだよ」
「すみません、然人くんについて行くのに必死で」
彼女はバツが悪そうな顔をすると、その場所に立って先行く然人のほうを見た。
彼女が倒れた場所がここだというのなら、この先に「不気味な光」が浮かんでいたことになる。
「然人! ちょっと戻ってきてくれ」
「お、何かあったか!」
然人が大股で下ってくると、俺たちは横に並んで懐中電灯の電源を消した。
すると、目の前に広がったのは恐ろしいほど真っ暗で、吸い込まれてしまいそうな「闇」だった。
都会育ちの俺にとっては経験したことのない……本当に、恐ろしい空間が広がっていた。
自分の手が見えない。いや、これでも今日は晴れている。
目が慣れれば月やら星やらの光で、ぼんやりとその姿を確認することはできるのだろう。しかし、頼りなかった懐中電灯の光にすがっていた瞳には、今は何も映らない。
先ほど部屋で話を聞いたときには、近野くらい気の弱い女の子だから気を失ったのかと考えたが……なるほど、この暗い中光が現れれば、俺も悲鳴ぐらいはあげてしまうかもしれない。
下手をすれば、その拍子に足を滑らせて、頭を打ったりするかもしれない。
「どうした、茶介。まさかビビってんべ?」
然人の声が妙に大きく聞こえる。彼の声を聴くことで、これが夢ではないことに気が付く。
「正直、そうだな」
「へへっ、夜の海なんて、まだまだこんなもんじゃねえべ?」
少しだけ想像して、背筋がぞわりとする。俺は首を横に振って、ここに来た目的を思い出す。
「こんなに暗くはなかったのかもしれないけど、近野、この先に見えたんだよな」
「確証はないですけれど、はい。恐らくこの場所からだと思います」
「なあ、何が見えたんだべ?」
「不気味な光です。道の真ん中にぼうっと浮いていて……私、それを見て気を失ってしまって……」
「不気味な光? ……ほー」
然人と近野のやり取りを聞きながら、俺は目を凝らして目線の先にあるはずの山道を見た。
しかし、目に入ってくるものは何もなかった。近野が言うには、道の上にゆらゆらと浮かぶ光が見えた、ということだったのだが、それらしきものは発見できない。
「近野、例の光の明るさってどれくらいだったんだ」
「歩きながらでもしっかりと見えるくらいの明るさでした。こう、立ち止まってようやく見えるような暗さではなかったです。……私、急いでいて早足でしたから」
「じゃあ、今この時点ではその光は無いってことか」
「そう……だと思います」
俺は懐中電灯を再度点けて、山道を登り始める。
「尾先くん?」
「近くまで行ってみれば何かあるかも。……ガラスの破片とか、何か光るようなものが」
「よっしゃ、探し物なら俺に任せときな!」
周りをゆっくりと照らしながら歩き始めた俺を、横から然人がひゅーっと抜かしていった。スマホで足元をサッと照らしながら、どんどんと進んでいく。
「おい!」
どうも、俺と然人の「探し物」のやり方は、まったくの正反対らしい。
俺のように几帳面に探しすぎるのもある意味では問題かもしれない。
でも、ヤツのように大雑把に広範囲を探すのもどうかと思う。特に今日のような視界が悪い中での捜索は、ゆっくり探していったほうが見落としも少ないだろうし、怪我もしなかろう。
それにしてもあいつ、普段よりもテンションが二段くらい高くないか? 日頃から割と行動は早いほうだが、今日は突飛な行動が多すぎる気がする。
暗い森の中に入っているということを、ただ楽しんでいるだけじゃないだろうな?
ともかく、俺は俺のペースで、周囲を捜索し始めた。とは言っても、ここまで登ってきたときにやってきたのと同じようなことを地道に続けているだけだ。
懐中電灯を上下左右に振り、照らされた場所に何かないか、を見続けるだけ。これが仮に徒労に終わろうと「見落とした何かがあったかもしれない」と思うよりは「隅々まで探したが、無かった」と言い切れる方が良い。
「私、この辺りに何かないか見てみます」
近野は、自分が倒れていた付近の地面を調べ始めた。登ってくるのに少々抵抗があるのかもしれない。自分がこのような状態になった付近……歩みを鈍らせるには、十分すぎるほどに不気味な場所だろう。
俺はそんな近野を残し、しばらく、ゆっくりと道を登りながら慎重な探索を続けた。しかし、特に妙なものは見つからず、然人に追いついてしまった。
「あれ、先に行かないのか」
「いんや、ほら、ここ、少し広いからさ」
然人がいたのは、先ほど「踊り場」と表現した、小さな広場だった。
広さは学校の教室の半分くらいで、地面にはレンガが敷き詰められており、その隙間からちらほらと草が伸びてきている。昔、ジジイに連れられて良く遊んだ場所だ。
いかに大雑把な然人であっても、この場所はある程度の広さがあるので、じっくりと探しているらしい。
足元のレンガを照らしながら、うろうろとその辺りを歩いていた。
「近野、そっちは何かあったか?」
「いえ、変わったものは、特に何も……」
案外、この辺りの段差は急だったらしい。
彼女を見下ろすような形で懐中電灯を振りながら、お互いの位置を確認した。角度はともかく、じっくりと探したのでかなりの距離を登ってきたような気がしたが、あまり大した距離ではなかったようだ。
ということは、なるほど、この付近に光源があった可能性も高そうだ。
俺は、周囲の木々を照らしてみる。
……そこにあったのはただ木の肌だけで、何か妙なものがぶら下がっていることはなかった。
ここに何もないとなると、もう少し下だろうか。上に進む道は切り返しており、先ほど近野が転んでいた場所からは見通すことができない。
そんなことを考えていると、近野が急に駆け上がってきて、俺の上着の裾を掴んだ。
「そういえば、大事なことを忘れてました」
「な、何だよ」
「私、祠にお願い事、まだしてないんです。日付は変わっちゃったかもしれませんけど、なるべく早めにしておきたいんです……」
ああ、何だ、そっちか。
何か恐ろしいことでも思い出したのかと身構えたが拍子抜けした。
だが、彼女にとっては大切なことなのだから、こちらも早く済ませておいたほうが良いだろう。
万に一つ、ひょっとすれば彼女の体も元通りになるかもしれないし。
「然人、先に近野が言ってる『祠』の方行くぞ」
「え? ああ」
然人は一度こちらに進みかけたが、にやりと笑ってこう言った。
「……いや、二人で行ってこいよ! おれ、ここでしばらく何か無いか探してんべ」
「は?」
「いやー、ほら。二人の時間を作ってやろうっていう心遣いだよ」
「あのなあ。だから、そういうんじゃねえんだって……」
然人は聞く耳を持たず、足元の捜索に戻ってしまったので、俺と近野は仕方なく、二人だけで山道を登っていくことにした。
先ほど説明したように、登り道は切り返す形になっているので、先ほど近野が倒れていた地点からは、よほど首を持ち上げなければ見えない場所になってくる。
そのため探し物はざっと見回す程度にしつつ、俺が前を、彼女が後ろを歩き「祠」へと向かう。
「その祠って、どの辺りにあるんだ? ……この先、特に何かがあった覚えはないんだけど」
「ここをもう少し行ったところです。道が途切れるはずなので、その先に……」
「だいたい、俺も知らないような祠がこの先にあるなんて、誰から聞いたんだ?」
そう尋ねると、後ろの足音がぴたりと止んだ。
「誰……からなんでしょう。私、記憶に無くって。……相当小さい頃だったと思います。小学生の頃には、もう通っていましたから。最初にお願いごとをしたのは、明日が晴れになりますように……だったと思いますし」
ずいぶんと可愛らしいお願いを聞いてくれる祠なのだな、と思った。
「でもさ、近野の家って、三駅も先なんだろ? 結構な距離あるじゃないか」
振り向くと、彼女は唇に指を当てて、考え込んでいるようだった。少し距離が開いていたのに気がついたのか、慌てて彼女は俺の近くまで登ってくる。
「はい、確かに……ただ、その頃から尾先くんのおじい様と知り合っていたと思うのです。行き返りでお菓子をもらったりして。……あれ、私、誰から聞いたんでしょうね?」
「いや、近野がわからなきゃ、誰もわからないだろ。教えてくれた本人以外はさ。……ジジイと知り合ったのは、祠の行き返りでなんだろ? だったらジジイではないよな」
「はい……あ。この先です」
近野が指差した先は、俺の記憶の通りに道が無くなっていた。林の中に分け入るように入っていく獣道が、辛うじて視認できる程度の場所だ。近野は俺の前に出ると、ずんずんとその中に入っていく。
「この先……まあ、そうだよな」
さすがに、俺はこれより先に入ったことは無かった。迷い無く進む近野の背中を、懐中電灯で照らしながらついて行く。
……何だか、こういう映画がありそうだった。
こうやって道なき道を進んでいくと、そのうちに見たことも無いような不思議な世界に出てしまい、その先にとても立派な祠がある、といったような……。
「あ、ここです」
近野が照らしていたのは、想像していたよりもずっと小さく――そして、先ほどの分かれ道を左手に行った小さな神社とすら比べるまでも無いほどの――小さな、本当に小さな石を積み上げた、ちょっとしたオブジェだった。
「……これか?」
「はい、これです」
近野はほっと安堵したような表情を見せた。
懐中電灯を消し、スカートの中に忍ばせていたお菓子の袋から、スナック菓子を一つ出して、その石の前に供えた。彼女は両手を顔の前で合わせると、静かに黙祷を始める。
彼女の「お願い事」は、背景に寺社仏閣やらパワースポットやらが伴ったりしていないためか、非常に簡素なものに見えた。
さわさわと周囲の葉が風で擦れる。何だか、彼女が手を合わせたことによって回りがざわついているような気がして、俺もつられて手を合わせた。こういうのは、気持ちが大事だ。きっと。
しかし、あれは……祠というよりは、何かの墓のように見える。
小さい頃、友人が飼っていたインコが死んでしまったとき、彼の家の庭で一緒に葬ったことがあった。そのとき、墓石として置いたものと同じような形に見えてしまったからだろう。
しばらくの間、静かな時間が流れた。二分ほどしただろうか、彼女は唐突に、
「終わりました。すみません、お待たせしました」
そう言って、こちらを向き直っていた。
「ああ。……済んだのか」
「はい、済みました。お付き合いいただいて、ありがとうございます」
俺は合わせていた両手を解くと、元の道に向かって歩き始める。
この場所にいったい何の意味があって、どうして近野が知っているのかという話は、また今度じっくり聞くことにしよう。少なくとも、霊的な何かが今回の件にかかわっていない限りは、今この時点で追及することにあまり意味はないだろうし。
「何をお願いしたんだ? ……って、聞かないほうがいいか」
「あっ。いえ、大丈夫です。さっきお家で話したように、私の大切な人が良くなりますようにって、そうお願いしました」
「大切な人……?」
「はい、私の大切な人、少し、具合が良くないみたいで。ほんのちょっとでいいから、何かの力になれないかなあ、って」
近野の大切な人。一体、誰なんだろう。
そういえば先ほど、家族について聞いたとき、連絡する人はいない、と彼女は言った。ひょっとして、その関係なのだろうか。考えを巡らせるが、答えは出てこなそうだった。
「自分のことより他人のことを心配できるのは、素敵なことだと思うよ」
「だとしたら、尾先さんも、素敵な人ですね」
あまりにもストレートな返しに、俺は思わず苦笑いしそうになった。歯の浮くような台詞を、何のためらいもなく返してくるものだ。
「俺は、そんな人間じゃないよ。学校だって……通ってないくらいだしさ」
「でも、こうやって私を助けてくれています」
「それは成り行きというか。家の前をお前がウロウロして通報されたり、自分の家の近くで妙な現象が起こっているのを、そのまま放置したりしたくなかっただけで……」
格好をつけたわけでもなんでもなく、これは俺の本心だった。
本当にここまで関わるつもりは無かったのだ。彼女を見捨てなかったという点では、確かに感謝されるような行為をしているのかもしれない。
だがそれは、ただの結果論である。
「理由は何でもいいんです。それでも、助けてくれていることには違いありませんから。何より、本当に素敵な人は、自分が素敵な人とは言わずに、逆のことを言うと思うんです」
だめだ。近野はそれほど口が回る方じゃないと思うのだが、どうも勝てる気がしない。俺は妙に恥ずかしくなり、そそくさと然人のいる踊り場へと急いだ。
「ところで、さっきの……今然人君がいる広場なんですけど……何か、変な感じがしませんでしたか?」
唐突に、近野が今までよりも少し下がったトーンで話しかけてきた。
「変な感じ?」
「いえ、思い違いかもしれないんですが……。そこまでの道とは、匂いが違った気がして」
言われてみてあの広場の状態を思い出すが、そんな違和感は無かったように思う。
「匂い……いや、何も感じなかったな。特別、俺は鼻が悪い方じゃないと思うんだけれど。狐の姿になって鼻が利くようになったんじゃないか?」
「そうかもしれません」
「違う匂いって、どんな匂いだ? そういや、あそこだけレンガが敷き詰められてるけど、その匂いか?」
「いいえ、あのレンガ、敷かれてから結構時間が経っているので、匂いは馴染んでいるように思います」
「じゃあ、いったい……」
「乾いた……埃っぽいというか、煤っぽいというか……何かが焦げたような匂いです」
「煤? ……それって」
俺が急に立ち止まったので、後ろから早足で付いてきていた近野が背中に思いっきり頭をぶつけてきた。
「あ、悪い」
「いえ……大丈夫です。何か見つけたのですか?」
「いや、そういうわけじゃなくて、ちょっとな……」
煤。
焦げた匂い。
普通に考えれば、何かが焼けたということだ。
その言葉が妙に引っかかりながらも、俺は先ほどよりもゆっくりと道を下っていく。最初に駆け出していたぶん、踊り場につくまでにそう時間はかからなかった。
然人がこちらにスマホの明かりを向けながら、必要以上の大声で叫ぶ。
「おー、早かったな! 用は済んだか!」
「あ、はい! おかげさまで、きちんとお願い事もできました。然人くんは何か見つけましたか?」
「いや、それが丸っきり。何も変なものは見つけられんべ。……ってか、本当にこの先に祠なんてあったんだな」
然人は変わらず、地面に明かりを当てながら、手がかりになるものを探してくれているようだ。
改めて鼻を利かせてみる。言われてみれば、少し焦げ臭いような気もするが、近野に言われたことでそう思い込んでいるだけかもしれない。
俺は、頭に浮かんだある一つの可能性を裏付けるため、周囲の地面を懐中電灯で照らした。
レンガのちょっとした隙間も含めてじっくりと探していくと……。
「おいおい、どうしたんだよ茶介、黙ってさ」
「何か探してるんですか、尾先くん……?」
……やはり、見つけた。
レンガの隙間に、銀色に反射する金属の光。
これと、今日起こった様々な出来事を結び付ければ……。
「俺、近野が見た光の正体がわかった……かもしれない」
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