第二十二話 少し時間があきました

 ゲラ刷りができ上るまでは少し時間がある。その間は以前の仕事に戻っていた。それもあって河野こうのさんの足がわりに、あちらこちらに行くことも増えている。


 最近は河野さんだけではなく、他の先輩からも頼まれるようになり、色んな先生達と顔を合わせる機会もあった。その中でも驚きだったのは、それまでずっと男性だと思っていたミステリー作家さんが、実は女性だったという事実だ。


「いやー、驚きです。ペンネームはどちちらともとれるし今どきな感じだったので、お若い人なのかなとは思ってたんですよ。お話の文章が男性的だから、てっきり若い男性の作家さんだと思ってました」


 しかもかなり年配のかただった。お仕事をリタイヤしてから執筆活動を始めた、いわゆる遅咲きの作家さんだったのだ。


「文書だけではわからんもんだろ?」

「わからないもんですねー。あ、ってことはですよ、この逆バージョンもいるってことですか?」


 私が女性だと思っている作家さんの中には、もしかしたら男性作家さんもいるかもしれない。


「さて、どうだろうな。露出を嫌う作家は結構いるからな。知られていないだけで、そういう先生もいるかもしれん。俺も作家の情報を、全部もっているわけじゃないからな」

「ってことは、編集担当がずっと秘密として、抱え込んでいる可能性もあるえると」


 そう言いながら後ろを振り返る。気のせいか、部屋にいた先輩編集者達が、全員そろって視線をそらしたよう見えた。


「あやしい反応がいっぱいですねえ……」

「少なくとも、俺が受け持った先生の中にはいなかったな。ただまあ、編集と顔を合わせているのが本人とは限らないからなあ」

「え? 先生の存在が影武者的な?!」


 河野さんがなんともワクワクする可能性を口にした。


「まったくのゼロではないだろ」

「うっわー、それ、ミステリーか何かの、ネタにできませんかね?!」

「お前が書くのか? なんなら俺が編集担当になってやろうか」


 ニヤッと笑う。


「イヤですよ。河野さん、なぜなぜ攻撃が容赦ようしゃないですもん。面白そうなネタが浮かんだら、加茂かも先生のところに持っていきます。で、書いてもらいます!」


 自分が思いついたネタを、大好きな作家が書いてくれるなんて、すごく幸せだと思う。想像しただけで顔がにやけた。そんな私の様子に、河野さんいやいやと首を横に振る。


「俺のなぜなぜ攻撃なんてかわいいもんだ。加茂先生のなぜなぜ攻撃のほうがずっと容赦ようしゃがないぞ。なぜ自分が書き上げた文書を削らなけれはならないのか? なぜ自分が考えたあらすじを変更しなければならないのか? なぜこの単語を使ってはいけないのか? とにかくなぜのオンパレードだ。それを突破しないと、こっちの希望通りの修正をしてくれないからな」

「……加茂先生こわい」


 思わずそうつぶやいてしまった。


「考えてもみろ。相手はこれまで長いこと、自分の文章で飯を食ってきた人なんだ。並大抵のことでは、修正になんて応じてくれないさ」

「河野さんでも苦労するんですか?」

「当然だ。三回に一回はこっちの言い分が通らないな」

「うっわー……」


 それは初耳だった。ある意味それは作家と編集者との戦いだ。加茂先生と河野さんがそんなやりとりをしているとは、まったく知らなかった。


「ってことは、私が面白いネタを持ち込んでも、なぜなぜ攻撃があるわけですね」

「まずは、なぜその話が面白いのか?から始まるな」

「そこから!!」


 ダメだ。せっかく面白いネタだと思ったが、そこから答えなければならないとなると、書いてもらえる可能性は限りなくゼロに近い。いや、ゼロ以下かも。


「だからもっともっと勉強しろよ、羽織屋はおりや。そうでないと、加茂先生の担当なんてできないからな」

精進しょうじんしますー」


 そんな日が来るとは思えないが。


「せっかく面白いネタだと思ったんだけどなー」

「面白いと説得させられたら勝ちだな」

「無理っぽいっすねー」


 机の上に置いてあったスマホがブルブルと踊りだす。


「おおっと」


 コーヒーの入ったマグカップに当たりそうになったところで、慌てて手にとった。


「はい、羽織屋ですー」

「おはようございます。安達あだちです」

「あ、おはようございます!」


 安達さんが電話をかけてくるとは珍しい。だいたいは予定通りに行ったり来たりしていたので、こんなふうに予定外の日に電話がかかってくることは今までになかった。あえてあげるなら、れいのキュウリを持って次男さんが来た時ぐらいだ。


―― 直接の電話なんて、キュウリの時のメール以上に緊急事態? ――


 少しだけ不安になった。


「今、よろしいですか?」

「あ、ちょっと待ってください。河野さん、あそこの応接室、使っても良いですか?」

「かまわんぞ、行ってこい」


 部屋の一角にある応接室。来客との打ち合わせ用に作られたスペースなので、防音もしっかりされている部屋だ。そこへ入るとドアをしっかりと閉めた。これで誰かに会話を聞かれることはない。


「お待たせしました。なにかありましたか?」


 治療中の小此木おこのぎさんになにかあったのだろうか? これまでが順調だったせいもあり、投薬治療についてもほとんど心配していなかったのだが。


「なにかあったというほどではないのですが、ゲラ刷りを渡す日を二日ほど、ずらしていたたきたいのですよ」

「先延ばしにするということですね?」

「はい。薬の副作用が思いのほか強いようでして。調子が上向きになるまでもう少しかかりそうだと、さきほど奥様から連絡があったのです」


 つまり安達さんは、小此木さんとは顔を合わせていないらしい。


「安達さんは、小此木さんに会われてないんですか?」

「ええ。今回の投薬治療は、以前より副作用が強く出るので、奥様からも遠慮するように言われておりまして」

「そうなんですか。わかりました。こちらは合わせますので、二日と言わず、体調が良くなられてからでけっこうですよ」

「そうおっしゃると思いました。ですがゲラ刷りを早く見たいと、駄々だだをこねられているようでしてね」


 安達さんの口調は、少し面白がっているように聞こえた。


駄々だだをこねる元気はあるんですね。そこは安心しました」

「それを楽しみに頑張っていらっしゃいますからね。ところで、奥様が羽織屋さんに、写真を送ったとおっしゃっていましたが?」

「ああ、はい。小此木さんの坊主頭の写真です。意外と似合ってましたよ?」


 坊主頭の小此木さんを思い出し、思わずニヤッと口元がゆがむ。


「なるほど。秘書の私には見せたくないとおっしゃっていたのに、そちらには送られたんですね。なんともはや」

「奥様からですけどね。あ、転送はしませんからね。もしどうしても見たいなら、奥様におっしゃってください」

「頭取からは、自分のクリクリ坊主姿を誰かに見せるなんてとんでもないと、言われてたのですがね。なるほど。長年、秘書として仕えてきた私より、編集の羽織屋さんですか。はー、そうですか、なるほど」

「ちょっと安達さん?」


 不穏な空気が耳元から流れてきた。


「ああ、すみません。少しばかり寂しい気持ちになりました。これがいわゆる、娘を嫁に出す父親の心境かと思いまして」

「それ、ぜんぜん違うと思います」


 思わず真顔でツッコミを入れた。もちろんあちらには私の顔は見えないだろうが、声で伝わったはずだ。


「まあ、それはさておき。日程の変更をお願いするための電話でもあったのですが、治療は順調だから心配しないようにと言付ことづけをあずかりましたのでね。それを羽織屋さんに、伝えておこうと思ったのですよ」

「そうだったんですか。わざわざありがとうございます」

「そのうち、奥様から直接の連絡があると思いますので、その時はお相手をお願いいたします」


 つまり今は奥様も、私に連絡をいれる余裕がないということなのだろう。


「承知しました」

「では、前日にはあらためて連絡をいたします。今のところは予定だった日の二日後ということで、お願いいたします」

「わかりました。できあがったゲラ刷りの確認に、その二日を使わせていただきます」

「よろしくお願いします。では失礼します」


 電話が切れた。


「小此木さん、がんばれ、がんばれー」


 電話に向かって小さく呟くと、立ち上がって部屋を出た。


「用件はすんだのか?」


 河野さんが声をかけてくる。


「はい。予定を変更してほしいとのことでした。おかげでゲラ刷りの事前確認ができます。その時間ができてラッキーでした」

「そうか」


 イスに座ってから河野さんを横目で見た。


「ところで河野さーん、校正さんは本当に入れないんですかー?」

「まだ言うのか。しつこいな。編集長がダメと言っただろ?」


 河野さんはわざとらしく電卓をたたき始める。


「もー、本当に心配なんですよー」

「この見積もりには、校正の作業代は含まれていない。つまりこの本には校正の人間は含まれない。以上」


 その話は強制終了されてしまった。

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