第二十三話 ゲラ刷りを届けます

河野こうのさーん、ゲラが刷り上がりましたよー」


 工場から受け取ってきたものを抱え、部屋に入った。


「おお、いよいよ本らしくなったな」

「これは河野さんの分で、こっちが編集長の分です」


 机の上にドンと置く。


「俺達にもあるのか」

「当たり前ですよ。小此木おこのぎさんに届けるのが、少しのびましたからね。その間に、可能な限りチェックをしてください」

「またかよー」

「またですよ」


 河野さんがウンザリした顔になり、不満げな声をあげた。


「もう俺達は校正作業をしただろー?」

「なに言ってるんですか。時間がある限りやってもらいますよ。なんせ誤字脱字、印刷の不備は、時間が経つと増えますからね」

「増えねーよ、アメーバじゃないんだぞ」

「いいえ、増えます。はい、ちゃんと仕事してください」

「なんでだー」

「だって、校正さん入れてくれなかったのは、編集長と河野さんの判断じゃないですか。それなりの責任はとってもらいますよ」


 不満タラタラの声を聞き流し、編集長のデスクに向かう。編集長は私から視線をはずした。そんなことをしてもムダだ。たとえここで一番偉い人でも、やることはやってもらう。


羽織屋はおりや君、僕は管理職でね」

「そんなこと関係ないですよ。関わったからには最後までやってもらいますから」

「僕のほうが偉いのに」


 編集長はボソッとつぶいた。


「なんですってー? 権力をかさにきて、仕事を放棄するんですかー?」

「ひどいなあ……」

「じゃあ、お願いしますね」


 そう言ってゲラを机にドンと置く。


「本当に僕、忙しいんだよ?」

「すぐにやれ、今日中にやれって話じゃないですから」

「……がんばるよ」

「はい。がんばってください。もちろん私もやるんですから」


 メガネを手にしたものの、やりたくないオーラがダダ漏れだ。だがそれを無視して、その場を離れた。席に戻ると、河野さんがまだブツブツ言い続けている。


「まったくなあ。こんなんだったら、校正の人間を入れておけば良かったな」

「だから言ったでしょ?て言ってほいしですか?」

「思ってても言うな。とにかくだ。ここまでやらされるんだ、絶対に誤字脱字は見逃してやるものか」


 河野さんがブツブツ言いながらメガネをかける。こちらも本気モードの老眼鏡だ。


「その意気ですよ、河野さーん。ま、今からでも校正さん入れてくれても良いんですけどねー」

「誰が入れるか。俺がすべての誤字脱字を殲滅せんめつする」

「がんばれー」


 もちろん私も応援するだけではない。さっそく集中してチェックをしなければ。イスに座ると、まずは乱丁らくちょう落丁らくちょうがないかの確認をする。それから印刷のズレの有無も。


「やっぱり表紙の紙、これにして良かったですね。いい感じです」

「その紙するなら箔押しできたんじゃないかって、編集長がぼやいていたけどな」

「ダメですよ。そんな派手なのは。そんな特殊加工をしたら、武田たけださんのデザインが台無しですよ」

「羽織屋くーん?」


 編集長が私を呼んだ。


「はやっ! もう見つけたんですか?」

「違うよ。これから頑張って見るから、いつものブルーベリーセット、買ってきてくれない?」

「まーたですかー?」


 れいのジュースとヨーグルトとサプリだ。


「羽織屋、俺も」

「えー? また私の立て替えですかー?」


 お財布をバッグから出すと、席を立つ。


「目薬は良いんですか?」

「あれはまだあるから大丈夫」

「わかりました。ま、私が責任者ですからね、しかたないですね、買ってきます」


 一回ぐらいおごってくれても良いのでは?と思いながら、部屋を出てエレベータホールに向かった。


「だいたい、毎日続けるから効果があるわけで、こんな時だけ飲んだり食べたりしても、効果ないと思うんだけどなあ……」


 行く先は社屋の隣にあるコンビニ。目的のジュースとヨーグルト、そしてサプリをカゴに放り込む。そして他になに買っておこうかなと商品棚を見ていると、野菜コーナーがあった。


「あ、本当に野菜うってる」


 トマトやキュウリ、そしてバナナやオレンジ、さらにはマイタケまである。当然のことながら、スーパーよりも割高だ。陳列ペースに空きができているところを見ると、それでも買っていく人もいるらしい。


「このへんオフィス街だけど、マイタケなんて誰が買っていくんだろ……」


 首をかしげながらおやつにシュークリームを買うと、レジに行った。シュークリームはいくつ買ったかって? もちろん三個。自分の分だけしか買わなかったら、絶対にブツブツ言ううるさいおじさん達がいるのだ。校正作業の報酬としては弱いが、それでもないよりかはマシだと思う。要は気持ちというやつなのだ。


「買ってきましたよー!」


 それぞれの机に、ブルーベリーセットとシュークリームを置く。


「?」

「シュークリームは私のおごりですよ。校正作業に続き、ゲラ刷りのチェックもやってもらうんですし」

「おお、ごちになる」

「武田さんとこにあるコーヒーメーカーのコーヒーと、一緒に三時のおやつをしたら最高でしょうけどね。ここには無いので、缶コーヒーで我慢してください」


 そう言って、廊下の自販機で買った缶コーヒーも並べた。


「ずいぶんとサービスが良いじゃないか」

「別にサービスしてるわけじゃないですよ。手伝ってもらってるんです。それなりのお礼は必要でしょ? たとえそれが上司でも。編集長にも渡してきますねー」


 編集長の机にならべたものは、もちろん河野さんと同じものだ。


「ありがとう。シュークリーム分はがんばるよ」

「カスタードと生クリームの二段構えですからね。それなりに高いので、気合を入れて作業してください」


 私の言葉に編集長は笑った。


「河野ちゃん、そういうわけらしいよ」

「いやいや、大変ですな。シュークリーム一つで羽織屋の尻に敷かれることになるとは」

「え、シュークリーム一つじゃ不満だと? だったら無しにしますか?」

「なにを言ってるんだ。もうこのシュークリームは俺達のものだろ」


 そう言って二人は、早々に袋をあけてシュークリームにかじりついた。


「まだ三時のおやつには早いのに」

「取られる前に食えの精神だ」

「どんな精神なんですか」


 笑いながらイスに座る。さて、最後のチェックにかかろう。印刷前に他の人の目でも見てもらったが、やはり自分の目で見ないとやはり心配だ。



+++++



 そして小此木さんに渡す日。ゲラ刷りが刷り上がってから、ギリギリまでチェックをしたが、幸いなことに誤字脱字や印刷のズレ、欠けは見つからなかった。あとは小此木さんがチェックをするだけだ。


 いつものように東都とうと銀行の本社に出向き、受付に直行する。


「おはようございます。光栄こうえい出版の羽織屋ですが、秘書室の安達さんをお願いします」

「光栄出版さまですね。少々お待ちください」


 ここに来るのはあと何回かなあと考えながら、受付の横で待たせてもらう。


「羽織屋さん、お待たせしました」

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 安達さんはすでに出かける準備をしていた。いつもなら面会時間の都合で午後からなのだが、今日は特別に朝からうかがうことになっていた。それだけ小此木さんが、ゲラ刷りの到着を待っているということらしい。


「小此木さんのお加減はどうなんですか?」

「昨日、電話で話をしたのですが、声を聞いた限りではお元気そうでしたよ。ああ、眉毛まゆげが薄くなって、ずいぶんと人相が悪くなってきたと嘆いておいででした」

「あー……そこも抜けますからねえ」


 副作用というのも大変だ。エレベーターを待ちながらそんなことを思った。


「今回の副作用では、味覚に異常はないんですか?」

「そのようですね。少なくとも私は聞いていませんね」

「じゃあ、今日のおみやげのプリンは、おいしく召し上がっていただけますねー」


 今日のおみやげは有名な洋菓子店のプリンだ。少し多めに買ってきたので、誰か来ていても大丈夫だろう。


「ああ、そう言えば。今日は回顧録の見積書も、持ってきていただいているのですよね」

「はい。小此木さんにお渡しして、印刷する部数を決めていただこうと」


 一応、最小で50冊、最大で1000冊までの値段を出してある。見た感じ、原価とまではいかなくても、かなりの格安になっているように思う。もちろんうちの社長と編集長のことだから、私の営業費を含めて、赤字になるような値段の出し方はしていないはず。普通に比べて格安というだけだ。


「安達さんはまだ、一度も読まれていないんですよね?」

「ネタバレ厳禁だと言われておりましてね。本になるまでは秘書の私にも秘密なんだそうです」

「なるほど。完成まであと少しですから」

「楽しみにしています」


 いつものように車に乗ると、小此木さんのいる病院へ向かった。

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