第二十四話 見積書を渡しました

「おや、皆さんもいらしていたんですか」


 病室に入ると、長男さんと長女さんがいた。その姿を見た安達あだちさんが目を丸くする。どうやら想定外のことだったらしい。


「ごめんなさいね。ゲラ刷りができてくるときいたら、皆、集まってきちゃって」

「皆さんと言っても、あきらあかねはきてないぞ」


 次男さんは自衛官、次女さんも自衛隊病院の看護師さん。平日のこんな時間には、なかなか仕事を抜け出せないのだろう。だが長男さんも官僚さんのはず。その官僚さんがなぜ、平日のこんな時間に病室にいられるのか。あまり深く詮索せんさくするのは良くない気がしたので、あえて考えないようにする。


「でもね、あの二人のあの口ぶりだと、仕事が終わったら飛んできそうよね」


 奥様が笑う。


「そんなこともあろうかと、ゲラ刷り、三部ほど持ってきました」

「それは助かる。奪い合いをせずにすむな」


 バッグの中から出すと、一部を小此木さんのベッドのテーブル。一部を奥様。そして残りの一部を長男さんに受け取ってもらった。


「皆さんがまとまって来るとわかっていたら、もうちょっと用意したんですが」

「いやいや、三部で十分だよ。ありがとう」


 あらためて、ベッドで体を起こしている小此木さんに目を向ける。


「ご気分はいかがですか?」

「うん。今日はずいぶんマシだよ。昨日までは来てもらうのを、もう少し先に延ばしてもらおうかって考えていたんだ」

「そんなにひどかったんですか」

「病気のもとを一つ残らず潰していくというのは、並大抵のことじゃないんだろうし、それなりに強い薬を使っているから覚悟はしていたんだけどね」


 言われてみれば、小此木さんは前の時よりも、ゲッソリした印象だ。


「髪をそっておいて良かったよ。頭を洗う気力もわかなくてね」

「あまり無理をしないでくださいね。本よりも健康が大事ですから」

「私もそう言ったのよ? でも早くゲラ刷りが見たいと言って、ぜんぜん聞かないの」


 奥様はため息まじりにそう言って笑った。


「今日は気分が良いんだから、問題ないだろ?」

「昨日までが問題なのよ。本当に困った人なんだから」

「しかたないだろ。これを楽しみに頑張ってきたんだから」


 小此木さんは口をとがらせる。


「本当に無理は禁物ですよ。本は逃げたりしませんから」

「わかっているよ。ああ、それと。今日は見積書を持ってきてくれたんだよね?」

「はい。編集長と河野こうのが計算をして出しましたので、間違いないと思います」

「迷惑料が上乗せされて割高になっていても、驚かないけどね」


 私から封筒を受け取りながら、いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「それはないと思いますけど」


 少なくとも私が見積書の計算書を見た時は、迷惑料やそれらしき項目はなかった。たぶん大丈夫だと思う……絶対とは言い切れない部分もあるが。


「さっそく見せてもらうね」

「どうぞ」


 封筒の中から見積書を出すと、メガネケースからメガネを出してかけた。そして真面目な顔をして、見積書を吟味ぎんみし始める。お子さん達は、自分達が受け取ったゲラ刷りを読み始めたが、私はそれより小此木さんの反応が気になった。


「あの、奥様?」

「なにかしら?」


 それぞれのページの写真を見ていた奥様に声をかける。


「今回の回顧録ですけど、何冊ぐらい作る予定にされているんですか?」

「見積もりは、何冊から出していただいているのかしら?」

「最低ロットぎりぎりの五十冊からなんですが、特にお売りになるわけでありませんよね?」


 そうなると五十冊でも多いのでは?と思う。まさか全国の東都とうと銀行支店に配る? いくら頭取さんの書いた本とは言え、かなりライトな感じの回顧録だ。これを支店に配るというのも、どうなんだろうと思う。


―― いやいや? 意外とライトで読みやすいから、一度読めば人気になるかも……? いやいや、まさか ――


「書きたいと言い出した時は、そんなこと何も考えていなかったと思うのよ。それこそ一冊あれば満足していたでしょうから」

「ですよねー」

「でも、普通に考えたら一冊なんて無理でしょ? どうなのかしら」


 奥様が首をかしげて考えこんだ。


「ご予算はどのぐらいを?」

「そこは私も聞いてなんいだけれど、最初はなんて言ってたのかしら?」

「特に予算的な制限はないようなことを、おっしゃっていたみたいで」

「あら、そうなの? そりゃあそれなりに資産はあるけれど、さすがに我が家も、石油王みたいな大金持ちじゃないのよ?」

「そこは理解しているつもりなんですが」


羽織屋はおりやさん?」


 小此木さんが声をあげた。


「はい」


 どうやら見積書の内容を確認し終わったらしい。


「これ、ちょっと安くない?」

「安い、ですか?」

「うん。ちゃんと営業経費を入れてる? それと印刷なんだけど、印刷の下請けさん達に無理は言ってない?」


 少し意外だった。本の出版ではあまり値段に詳しくない人のほうが圧倒的に多く、見積書を提出すると、たいていは高いねと言われるのだ。それなのに小此木さんは、さらに印刷工場のことまで口にしている。


―― さすが銀行の元営業マン。色々とよく知っていらっしゃる ――


「営業経費は内訳にもあるように、ちゃん乗せてます。あと、工場にはなにも言っていないと思います。少なくとも担当の私はなにも言ってませんし、言われていません」


 上のほうで余計なことを言っていなければの話だが。


「でもこれ、原価に近いよね?」

「あくまでも当社は、小此木さんから印刷を委託されたという形をとっていますので」

「なるほどね」

「値段に関して詳しく話をされるのでしたら、東都新聞の社主に質問していただけたらと思います。最終的に決済してGOサインを出したのは、社主なので」

「あー、そっちもかんでたのか。わかった。じゃあ値段に関しては、あいつを少しつついてみるとするよ。赤字ではないんだね」

「そこは間違いなく」


「ねえ、お父さん。これって続きは書かないの?」


 長女さんが声をあげる。


「回顧録っていうのは、何度も書くものじゃないよ。なんでだ?」

「おチビちゃん達が出てないじゃない。これを話して聞かせたら、絶対に異議申し立てがあると思う」


 原稿に色とりどりのペンで書かれていた名前を思い浮かべる。たしかに孫さん達の存在は、本文中で少し触れられただけで、詳しくは書かれていなかった。お孫さんの立場からすると、たしかにガッカリだ。


「どうしても続きを本にしたいなら、母さんに頼みなさい。私はもう書かないよ」

「おチビさん達、これじゃあガッカリする」

「だから、お母さんに頼みなさい」


 奥様は二人の会話を聞きつつ、最後のページに目を通していた。


「あなたが書いたところからだと、よほど長生きしてもらわないと、一冊分にはならないわよ?」

「少なくとも、彰が結婚して子供が生まれるまでは元気でいたいものだが、あいつは身を固める気はないのか?」

「さあ、どうなのかしらね。今は仕事が楽しくて、それどころじゃないんじゃないかしら」


 二人は視線をなぜか私に向けた。思わず首をブンブンと横にふる。そこでなぜ私を見るのか。次男さんが訪問した際に、不審人物として会社から追い出さなかっただけでも、感謝してほしいぐらいなのに。


「じゃあ、おチビさん達は写真だけで満足しなければいけないのね?」

「そういうことだ。どうしてもというなら、母さんに続きを書いてもらうか、自分で自分史を書くことだね」

「だったらせいぜい長生きしてくださいな。あなたが書き尽くしてしまったせいで、なにも書く題材がないんですもの」


 奥様がすました顔で言った。


「それより彰だよ、彰。あいつの相手を探さなければ。安達君?」

「彰さんは陸上自衛隊の幹部自衛官です。相手も選びませんと」


 安達さんはあくまでも秘書らしい表情をくずさない。そんな安達さんの横で私はボソッとつぶやく。


「私、不謹慎かもしれませんけど、小此木さんが元気じゃない時にうかがったほうが、良い気がしてきました」

「申し訳ありませんね。これが頭取の唯一の困ったところでして」

「なんだ? なにをヒソヒソと?」


 小此木さんが耳に手を当ててこっちを見た。


「しかも地獄耳なんです。都合の悪いことはまったく聞こえない、便利な地獄耳なんですがね」

「安達君?」

「ゲラ刷りの返却をいつにしようか、相談しておりました。頭取はどのぐらい時間をかけたいですかという話です」

「どうせ彰と茜が目を通すと言い張るだろうから、そうだなあ……いつもより長くお願いしたいんだが、大丈夫かな?」

「問題ありません」


 次の投薬開始の日と副作用の経過を考え、ゲラ刷りの返却は三週間後となった。


「ずいぶんと待たせてしまうが、よろしく頼みます」

「承知しました。書き直したい箇所がありましたら、遠慮なく書き直してください。そこは対処します」

「ありがとう」


 そういうわけで、最後のチェックが小此木さんの手に渡った。

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