第三話 頭取さんに御挨拶してきました

 大手銀行の頭取が入院する部屋は、個室の中でも『特別室』と言われている部屋だった。病院とは思えない内装に圧倒される。いわゆる『政治家が入院』する時も、こういう部屋に滞在するらしい。


「ご無沙汰しております」


 部屋に入ると、ベッドで点滴中の男性とその奥様が、私達をむかえてくれた。


「久し振りだね、河野こうの君。一昨年おととしの新年会以来かな」

「そうですね。去年の我が社はそちら主導の大量リストラで、新年会どころではありせんでしたから」

「ああ、そうだった。去年は色々と大変だったね」

「まったくです。あの時の編集部の様子を、頭取にお見せしたかった」


 アハハハハと笑いあっている二人の笑顔が実に怖い。


「そういうわけで、編集長はあいも変わらず多忙ですので、私が代理でまいりました。こちらが今回の件で担当をする、羽織屋はおりやです」

「羽織屋ともうします」


 頭をさげてから名刺を渡す。


小此木おこのぎです。今回は急なことで申し訳ない」

「いえ! こちらこそ、よろしくお願いします!」

「まったくです。あまりにも急すぎて、こちらでは断ろうかと思っていました」

「ちょ、河野さん」


 あまりにもはっきりと言うので、こちらは冷や汗ものだ。だが、言われた小此木さんは、特に気にしている様子はなかった。


「急なのは十分に承知しているよ。こちらも急だったのでね。引き受けてもらえて良かった」

「ですがご承知のとおり、編集部も大幅に人員が削減されまして、動けるのが新人の羽織屋しかいないのですよ」

「それはしかたないね」


 小此木さんがうなづく。


「入社一年目で経験は浅いですが、実に真面目です。加茂かも先生にも気に入られております」

「あの先生と馬が合うのか。それはなかなかの逸材だ」

「……いやあ、それほどでも」


 正直、奥様と家政婦の吉田よしださんによくしてもらっているだけで、先生に気に入られているかどうかは不明だ。入社一年目の人間のことなど、最初から相手にしていないのかもしれないし。


「僕も本を書くなんて初めてのことだし、経験不足な者同士、がんばるしかないな。よろしく頼むね」

「ご迷惑をかけないように、がんばります!」


 あらためて頭をさげた。


「では私はこれで失礼します。加茂先生の締め切りが迫っておりますので。では羽織屋、あとのことは任せる。帰りは電車で戻ってこい。領収書を忘れるなよ」

「え?! もう行っちゃうんですか?!」


 河野さんの言葉にギョッとなる。


「顔合わせは無事にすんだろ。俺は忙しいんだよ。じゃ、一回目の打ち合わせ、がんばれよ」


 部屋を出る時、河野さんはめちゃくちゃ良い笑顔を、こちらに向けた。ドアが閉まり、私はその場で呆然としたまま固まる。いきなり一人で打ち合わせをしろと?


「あの、回顧録をお書きになりたいということでしたが……」


 意を決して振り返り、話をしようとしたら、小此木さんと奥様が笑い出した。


「……あの?」

「いや、すまない。河野君達の仕打ちが、あまりにも酷いのでね」

「本当に申し訳ありません! うちの編集部、本当に人の手が足りてなくて!」

「それはわかっているよ。リストラ名簿は、私も見せてもらったから。新人の羽織屋さんが担当になった理由、これって僕に対する、意趣返しの意味も込められているんだよね?」


 どうやらお見通しのようだ。


「ご安心ください! 引き受けたからには責任をもって、我が社から出版いたします! そこは河野もはっきりと言っていましたので!」


 本の形になれば良いと考えている編集長はともかく、河野さんは引き受けるからにはきちんと仕事をすべきと言っていた。だからそこは安心してもらっても良い。ただ問題なのは、私が経験値の低い編集者ということだ。


「うん。そこはそちらを信用しているよ。だから経験の浅さい者同士で、がんばるしかないねって話だし」

「本当に申し訳ありません!」

「ま、羽織屋さんも、いわば被害者みたいなものだから。ああ、そうだ。しばらくは何度も顔を合わせることになるだろうから、ちゃんと紹介しておくね。妻の玲子れいこです」


 ベッドの横のイスに座っていた奥様が、私に会釈をした。


「小此木の家内です」

「羽織屋です! よろしくお願いします!」

「こちらこそ、よろしくお願いします。本当にごめんなさいね、いきなりのことで」

「いえ! いい本ができあがるように、がんばります! ところで、もう何を書くかは固まっているんですか?」


 銀行頭取の回顧録ともなれば、経済界での丁々発止ちょうちょうはっしなやり取りや、専門用語がたくさん出てきそうだ。経済にはあまり詳しくないが、大丈夫だろうか?


「最初は、銀行マンとしての人生を振り返ってみようと思っていたんだけどね。だけどそれだと、あまりにも味気ないだろ? 仕事しかない人生だったのかって」

「半分以上は間違いなく仕事よね」


 奥様がすました顔で口をはさむ。


「まあ、そこは否定しない。こういう場合、どうしたら良いんだろうね。羽織屋さんはどう思う?」

「そうですねえ……小此木頭取は、ずっと東都とうと銀行でお勤めなんですか?」

「そうだよ」

「だったら、転勤もしていらっしゃいますよね?」

「もちろん。それこそ、もう引っ越しはウンザリってぐらいね」


 転勤は出世に必要なステップだと、誰かが言っていた記憶がある。頭取にまでなった人だ。きっといくつもの支店を渡り歩いてきたことだろう。


「でしたら、それぞれの転勤先での印象深いエピソードを、順番に書いてみるのはどうでしょう? 書いていくうちに、自分の書きたいものが固まってくると思います」

「ああ、それは面白いね。家族で撮った写真もいっぱいあるんだ。それを見たら、色々と思い出すかもしれないな」

「アルバムを少しずつ持ってきましょうか」


 奥様が提案をした。


「ああ、たのむ。重たいから一冊ずつでかまわないよ。来る時はタクシーを使うんだぞ」

「わかっています」


 ドアをノックする音がして、看護師さんが部屋に入ってきた。


「小此木さん、点滴の交換の時間ですよ。あら、娘さんですか?」

「いやいや。知り合いの出版社の人でね、私の編集担当さんになったんだ」


 それを聞いて、看護師さんが目を丸くする。


「あら。本当に回顧録を書くおつもりなんですか?」

「冗談だと思っていたのかい? ここには仕事も持ってこれないし、会議もできないだろ? なにかしていないと、退屈だからね」

「あらあら。検査がたくさんあって意外と忙しいとぼやいていたのは、誰でしたっけ?」


 看護師さんはほがらかに笑いながら、手際よく点滴の薬を交換した。


「書くのは良いですけど、遅くまで起きているのはダメですからね。ほら、小説家や漫画家さんって、締め切りが迫ってくると、徹夜しがちになるって聞きますから。消灯後、寝ていらっしゃるか確かめに来なければいけないなんて、私はごめんですよ?」


 看護師さんは、一瞬だけ私の目を見る。その目は「この人が病人であることを忘れないように」と警告していた。


「遅くまで起きていたらダメという意見には、私も大賛成です。寝不足だと良い作品は書けないって、加茂先生もおっしゃっていましたから。ですから小此木頭取も、消灯時間はしっかり守ってくださいね」

「やれやれ。せっかく自分の時間が持てたというのに、まるで子供あつかいだな。消灯時間は十時だよ? その日のニュースも見れないじゃないか」

「早い時間にやるニュース番組もありますよ」


 不満げな小此木さんの声に、看護師さんはニコニコしながらそう答えた。


「とにかく、入院していらっしゃる間の小此木さんは、私達の管理下にあることをお忘れなく。大きな銀行の頭取さんも、幼稚園に通う小さなお子さんも、みんな、平等ですからね。もちろん、編集さんもですよ? 私達の患者さんに無理をさせるようなら、つまみ出しますからね」

「肝に銘じますー」


 あの目つきも顔つきも絶対に本気だ。小此木さんがちょっとでも遅くまで起きてようものなら、どちらにも雷が落ちることになるだろう。


「くわばらくわばら……」

「なんですかー? なにか言いましたかー?」

「なにも! ああ、そうだ! 看護師さん、一つお聞きしたいことが!」


 部屋を出ようとした看護師さんを呼び止める。


「なんでしょう?」

「お見舞いに来る時、なにか差し入れを持ってきても大丈夫でしょうか? ほら、病院のご飯って……」


 バランスは良くても、味気ないことが多いから。


「そうですね。ま、お酒を持ち込んでパーティーをしない限りは、良識範囲での差し入れは問題ありませんよ」


 看護師さんは「良識範囲」を強調して言った。本当はもろ手を挙げて賛成ではできないのかもしれないが、そのへんは『特別室』効果なのだろう。


「ありがとうございます。良識範囲でなにか考えます」


 次にうかがう時は、なにか美味しいお菓子を持ってこようと決めた。もちろん良識範囲で。

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