第十八話 誰か校正してください

 その日、デスクで原稿のデータ整理をしていると、河野こうのさんがモニターをのぞき込んできた。


「それが最終の原稿か?」

「はい。入力は終わったので、出力して自分で内校します」

「ページ数はどのぐらいになった?」

「えーとですね……こうなりました」


 モニターにふられた数字を見せると、自分が予想していたページ数に近かったらしく、うんうんとうなづいている。商業誌なら予算が決まっているので、多くなれば削るし、少なければ膨らませる。だが小此木おこのぎさんの場合は個人で出版する回顧録なので、ページ繰りが問題なければ、修正した部分以外は書かれた原稿のままでいく予定だ。


「写真の用意はできたのか?」

武田たけださんに、スキャニングと画像調整をお願いしてあります。飛び込みの作業だけど、今日中に完了せさると言ってました」

「女史には足を向けて寝られないな」

「我をあがめたたえよと言ってましたよ」

「おお、こわい」


 河野さんはわざとらしく、ブルブルと震えてみせた。


「あ、お願いしていた校正、できました?」

「俺が任された分は終わったぞ」


 渡された校正紙には、派手なピンクの蛍光色の付箋紙ふせんしが何枚か貼られている。


「誤字脱字ありました?」

「俺が見た限りはなかったな。何ヶ所か修正したほうが良いと思う文言もんごんがあったんで、付箋紙ふせんしを貼っておいたんだ。そこをどうするかの判断は、お前に任せる。編集長のほうはどうだ?」

「さっき催促しました。昼までに戻してくれるそうです」


 本来だと校正は、それ専門の人に任せるのが通常の段取りだ。だが、今回は極秘任務ということもあり、私と河野さん、そして編集長のみで校正をおこなっている。自分としては専門の校正さんに目を通してほしいのだが、今のところどうなるかは不透明なままだった。


「まだなのか。編集長、俺より少なかったろ」

「俺は忙しいんだって言ってましたけどね」


 編集長が座っている机を指でさす。いつもは呑気な顔をしてパソコンをみたり新聞を読んだりしているが、今日はそこそこ真剣な顔をして、原稿の確認作業をしていた。しかも老眼鏡装備だ。それなりに編集長の本気度がうかがえる。


「俺がやった分、編集長に渡してくる。で、俺は編集長が確認し終えた分の再校正をやるわ。すべて三人が目を通したほうが良いだろう」

「ありがとうございます。あと、できればゲラ刷りの後、校正さんに校正をお願いしたいんですがー」

「却下」


 河野さんの答えは冷たい。


「えー、極秘任務でも、そこはいつものようにやりましょうよー、校正さんのお仕事は重要でしょー」

「今のところはダメ。どこから漏れるかわからん」

「武田さんは良いんですかー?」

「女史は編集部のぬしだからな。あ、だからって女史にまで校正を押しつけるなよ? それこそストライキおこされるから」


 一瞬だけよぎったのを察したのか、早々にクギをさされた。


「俺と編集長が校正してるんだぞ。なんの不満があるんだ」

「ですから、校正さんが専門職なのは、それなりに理由があるじゃないですか。私達はうっかり読んじゃいますけど、校正さんは校正をしてくれるわけですし」

「考えておく」

「お願いしますよー、誤字脱字があったら、シャレにならないんですからー」


 今回の本に関しては、いろいろと手順がイレギュラーな状態だ。だが、小此木さんが入院していることもあり、一気に書けない、校正返しの分が確認できない状態なので、今のところ、そのイレギュラーな手順でうまく進んでいる。


―― ここに校正さんが一人加われば、鉄壁の布陣なんだけどなあ…… ――


 編集長のところに行った河野さんが戻ってきた。その手には校正刷りがある。そして編集長は、何か言いたげな顔を私に向けていた。


「編集長、なんであんな顔してるんですか?」

「俺の分を渡したのが気に食わないらしい。編集長様はお忙しいんだそうだ」

「でも、連帯責任ですよね?」

「その通り。だからしっかり校正してくださいと言ってきた」


 河野さんはドカッと自分のイスに座ると、校正紙を机の上にひろげる。


「ああ、それと。その時に編集長と話したんだが、そろそろ値段を出さないといかんのだよな」

「そうなんですよ」


 小此木さんは、費用に関してはこちらにお任せのスタンスだが、だからと言って、このまま見積もりを出さないわけにはいかない。そろそろ、ちゃんとした値段を提示しなければ。


「ページ数も決まりましたからね。誤差はほとんどないとふんでます」

「あとは部数か」

「はい。どのぐらいを考えていらっしゃるんでしょうね、小此木さん。まさか一冊とか言いませんよね?」

「さすがにそれはないだろ。しかし本人が利益をだすつもりなら、単価を下げるためにある程度は刷るが、あくまでも個人誌どまりだろうからなあ」

「何冊から出しましょう、見積もり」


 サークル活動相手の小規模の印刷屋なら、十冊ぐらいからでも、それなりの値段で対応ができる。だがこちらは、そこそこ大きな出版社。十冊単位でも作れないことはないが、直営の印刷工場の機械が大きい分、かなり効率が悪くなる。つまり、お値段的には割高になりやすいのだ。


「そこは俺と編集長で決めても良いか? おそらくこの件では、うちの社長と東都とうと新聞の社主にも、確認をとらなきゃならんだろうから」

「わかりました。いちおうゲラ刷りを渡すのがこの日なので、それまでに出していただけると助かります」


 手帳に書かれた日付を見せる。


「了解した。さて、校正を始めるか」

「校正さん、お願いしますねー?」

「考えておく」


 そう言って、河野さんは校正作業を始めた。


羽織屋はおりやー?」

「なんでしょう?」


 編集長の呼ぶ声に顔をあげる。


「隣のドラッグストアで、これ買ってきてくれー」

「お使いですか?」


 しかもドラッグストアとは。編集長から渡されたメモ書きには、目薬、ジュース、ヨーグルト、サプリとあった。


「なんですか、これ」

「目薬はかすみ目用な。それからジュースとヨーグルトとサプリは、全部ブルーベリー系な」

「目ですか」

「目だよ」


 目がしょぼしょぼするらしく、編集長は目頭を指でもんでいる。


「あれだけの文字を見続けたら、さすがに目がつらくないか?」

「まあそれなりに」

「若いってうらやましいな。だが油断することなく大事にしろよ? お前も買っておくべし。経費で落ちるだろ、それぐらいなら。はい、行ってらっしゃい、よろしく頼むね」

「了解です」


 席に戻ると、バッグからお財布を出した。


「おつかいか?」

「はい。お目目のためのブルーベリー一式ってやつらしいです」

「じゃあ俺も同じやつ頼む」

「はーい」


 どちらもお財布を出す素振りさえない。いくら経費で落ちるからとはいえ、一番の下っ端に立て替えさせるとは、先輩や上司としていかがなものかと。そんなことをブツブツとつぶやきながら、部屋を出た。



+++



「なになにー? かすみ目専用の目薬が三個に、ブルーベリージュースが三本、ブルーベリーヨーグルトが三パック、それからブルーベリーサプリが三袋。ブルーベリーだらけね」


 その日は月の締め日。清算する経費の書類を、経理部に提出する期限日だ。さっさと編集長のハンコをもらい、経理部に向かう。そしてそこで内容を確認もらっていたら、経理の人に笑われた。


「全部が私のじゃないですよ。それぞれ一つずつ、私と河野さん、編集長の分です」

「三人でなにしてるの。そんなに目を酷使するような仕事でもあった?」

「普段は使わないから、たまに使うとダメージが大きいらしいです。特に編集長が」


 お年ですもんねーと二人で納得する。


「しかも私が立て替えてるんですよ。これ。編集長と河野さんのほうがお給料は高いですよね? 一番下っ端の私に建て替えさせるなんて、酷いと思いません? だから今回は絶対に、経費で落としてください」

「福利厚生で落とせそうな気はするわね」

「ですよねー」


 提出された書類に、経理さんの承認用のハンコがおされた。


「あ、そう言えば、受付の子から聞いたんだけど、羽織屋さんのカレシさんて、キュウリの行商してるの?」

「はい?」

「この前、キュウリを持って会いに来たらしいじゃない? どこかの農家さんなの?」

「カレシさんじゃないですよ。行商人でもないです。それからキュウリ農家でもないです」

「あら、そうなの。ざんねーん。せっかく新しいコイバナの話でも聞けると思ったのに」


 あれだけ目立つ制服で訪問したというのに、すべてキュウリに持っていかれたようだ。もしかしてあれは、相手の目をくらますための、次男さんの作戦だったのだろうか?


―― まさかキュウリが? ないない、絶対なにない。単に結果オーライなだけでしょ……多分 ――


 そしてキュウリの話はともかく、ブルーベリー関連は編集部の雑費で落とされた。少額だったせいもあり、その場での返金となったのは、ラッキーだったかもしれない。

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