第十九話 小此木さん夫婦のちょっとした秘密

羽織屋はおりや、校正が終わったぞー」

「こっちも終わったよー!」


 時計が三時を回る頃、河野こうのさんと編集長が声をあげた。


「ありがとうございます! どうでした?」

「誤字脱字はなかったよ」

「少なくとも俺達は、見つけられなかったな」


 二人が口をそろえる。だが私が言いたいのはそこじゃない。


「そうじゃなくて、小此木おこのぎさんの文章ですよ」

「ああ、そっちか。なかなか読みやすかったよ。河野ちゃんはどう思った?」

「非常に読みやすかったです。とても初めて書いたとは思えないですね」

「だよねー。これなら経済誌のコラムを頼んでも、楽に書いてもらえそうだ。今回の件が片づいたら、依頼してみるのも良いな」


 編集長は本気で小此木さんに、経済誌のコラムを頼もうとしているようだ。


「小此木さん、イヤがると思いますけどねー……」


―― 退職しちゃったらなおのこと…… ――


 小此木さんが退職するつもりでいることは、まだ編集長と河野さんには話していなかった。小此木さんと安達あだちさんからは、特に口止めをされているわけではない。つまり、少なくとも今回のことに関わっている二人には、話しても問題ないという判断のはずだ。だが私は、東都とうと銀行が正式に発表するまで、この件について話すつもりはなかった。


「んー? 羽織屋君はこのカラクリについて、何か知っているのかい?」

「まさか、ゴーストライターがいるんじゃないだろうな? 正直に話せ」

「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。これは間違いなく、小此木さん本人が書いたものですよ。そんなことを言ったら、小此木さんに失礼じゃないですか」


 なんてことを言うのかと目をむく。


「だがうますぎる。初めてとは思えん」

「たしかにあやしすきるねえ」

「うますぎるあやしすぎるって。そりゃ、大手銀行の頭取にまで昇りつめた人なんです。才能があっても不思議じゃないでしょ?」


 まったく困ったものだ。しかたがない。小此木さんの名誉のために、少しだけ種明たねあかしをしておこう。


「あれは間違いなく、小此木さんが書いたものですよ。ただ」

「ただ?」

「ただ、なんだ?」


 二人がすごい形相で迫ってくるので、思わず手にした校正原稿を振り回した。


「もう。近すぎ! おっさん二人がそんなに近寄ってきたら、加齢臭かれいしゅうが漂いそうですよ! もうちょっと離れてください!」

「おっさんとはひどいなあ。まだ六十前だよ、俺達」

「加齢臭なんてしてないだろ、まだ。娘にだって言われたことないぞ?」


 そう言いつつ二人は、自分の服などのにおいを嗅いでいる。


「とにかく、もうちょっと離れて! まったく! なんでそんなに気になるのか理解できませんよ。上手な文章を書いてくれるなら、それで良いじゃないですか。なにか問題でも?」

「問題はないけど気になるんだよ」

「編集者としての本能だ。そこは気にするな」

「だったら小此木さんのことも気にしなきゃ良いのに」


「「だから気になるのが編集者の本能なんだよ」」

「どんな本能なんですか!」


 二人の声がはもった。思わず大きなため息がもれた。


「あのですね。小此木さんには、超優秀な編集さんがついているんですよ」

「おい、さりげなく自分のことをほめるな」

「それって謙虚さのカケラもない言葉だねえ?」

「だから! 私のことじゃなくて!」


 この二人、もしかしてわかっていてワザと茶化してる? そう疑ったが、二人の表情はあくまでも真顔だ。いや、真顔でもこの二人なら、十分にあやしく信用ならないのだが。


「だったら秘書の安達あだちさんとか?」

「安達さんはあくまでも秘書ですよ」

「……まさか奥さんか?」


 河野さんが正解を導きだした。


「正解です、河野さん」

「そりゃ、今までずっと一緒にやってきたんだ。回顧録を書くには、もってこいの存在ではあるな」


 河野さんが納得したとうなづく。


「それもあるんですけど、奥さん、大学で文芸サークルに所属していそうです。一時期は小説家になりたいと思って、出版社の公募にも、何度か出したことがあるって話でしたよ」

「どうりで、完成した文章になっていると思った。ちゃんとルールを知っている人間がいたら、当然だね」


 編集長がうなづいた。


「投薬の日程で、どうしても原稿を渡すまで時間があるじゃないですか。その時間を利用して、書けたものから読んでいらっしゃったそうです」


 最初は小此木さんはイヤがったらしい。だが読んだ奥様のアドバイスを聞くうちに、奥様の指摘は正しいと納得し、それからはずっと奥様に読んでもらっていたそうだ。


「驚きですよ。で、渡される原稿も、最初に書いたものに奥様が校閲して、それを小此木さんが清書して渡してくださっていたんです」


 どうりでこちらの仕事がはかとるはずだ。私がするはずの作業のほとんどは、奥様が片づけてくださっていたのだから。


「思うんですけど、奥様がなさっている作業分、ここは値引きするべきです。少なくとも私の仕事は、ものすごく楽になってます」


 まさか自分が、値引き交渉をすることになるとは。ただまあ、見積もりの内訳を見せてもらった時点で、このことを話して、値引いてもらおうとは考えていたのだが。


「あ、ちなみにですね、奥様は回顧録を含め、自分で書く気はまったくないそうです。編集長が変な気を起こさないうちに言っておきますね」

「俺が変な気とは心外だねえ」

「だって本当に言いそうだし」

「……まあ、ちょっとは考えた。いや、もちろんコラム程度のものだけど!」


 私の表情を見て慌てて付け加える。


「とにかく、その点の配慮をお願いします。奥様のお陰で、未熟な私が編集者としてやっていけているので。ああ、もちろん、これは御内密に。ネタバレ厳禁です」

「頭取の沽券こけんにかかわるってか?」

「違いますよ。奥様の配慮です。内助の功はあくまでも内助の功だということで」


 目に力を込め二人をみつめた。しばらくの沈黙の後、編集長と河野さんが、降参とばかりに両手をあげる。


「わかったよ。羽織屋君のネタバレ厳禁は絶対だからね。俺達も黙っておくよ」

「よろしくお願いします。河野さんもですからね?」

「この案件はお前が担当しているんだ。その担当者のお前が黙ってろと言うんだ、俺達はそれに従うまでだ」


 それを聞いて安心した。


「さてー、おわったおわった。さっそくブルーベリージュースとサプリを飲まなきゃ。もう目がショボショボだよ。年はとりたくないねえ……」


 編集長はため息をつきながら、自分の席に戻っていった。返ってきた原稿をページ順に重ねていく。写真データの編集が終わったら、いよいよゲラ刷りだ。


「ところで羽織屋」

「なんですかー?」

「お前、他にも隠してることないだろうな」


 河野さんの目がジロリとこっちをにらんだ。


「なにを隠すんですか?」

「小此木さんとこの件だよ」

「奥さんが編集してくださったこと以外にですか? 今のところ、特に隠さなきゃいけないことには、出会ってないと思いますけど?」


 れいの退職の件以外に、なにかあったかなと首をかしげながら考える。あ、あった。


「あ、奥さんと個人的なやり取りをするために、SNSアプリのIDの交換はしました。そのアドレスは河野さんにでも、教えられませんよ?」

「なんでまたそんなの交換したんだ」


 河野さんがあきれたように笑う。


「え? いや、今度の投薬治療に使うお薬の副作用が、どうも髪の毛が抜けてしまう系らしくて。で、抜ける前に小此木さん、さっさと坊主頭にするって言ってるんですよ。で、その写真を送りたいからって」

「安達さん経由じゃいかんのか。どうせ安達さんも、その頭は見ることになるんだろ?」

「まあそうなんですけど。あああ、まさか!!」


 いまさらだが、もう一つ、とんでもない可能性に気がついた。


「なんだ、どうした?」

「え? ああ、いえ、まあ特に問題はないと思うんですけど。これは河野さんは関係ないことなので」

「なんだそりゃ。あれだけ大きな声で叫んでおいて、俺は関係ないのか」


 そう言って顔をしかめる。


「関係ないです。ああ、これが隠し事ですね。ま、私と奥様の個人的なやり取りであって、河野さんと編集長には、まったく関係ないことですけど」

「それ、会社に不利益をもたらさないだろうな」

「まったくもたらさないです。だって会社にもまったく関係ないことですから。会社にまったく関係ないってことは、河野さんと編集長にはますます関係ないことですよね。つまり教える必要はまったくないと」

「そのムカつく言い方はよせ」


 河野さんはとうとう笑い出した。


「じゃあ、武田たけださんとこいって、写真の作業がどうなっているか、聞いてきます」

「女史に今みたいな口調で偉そうに言うなよ?」

「言いませんよー。だって武田さんは、あがめたたえる存在ですから」


 俺と編集長の立場は一体なんなんだと、ぼやいている河野さんをそのままにして、私は部屋を出た。

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