第七話 病室なのに仕事をする頭取さん

 車は病院の敷地に入ると、IDカードを使用するゲートを通り、地下へとおりていく。


「そのカードは、病院が発行しているんですか?」


 安達あだちさんが上着の内ポケットに入れたカードを、横目で見ながら質問をした。


羽織屋はおりやさんは、知らないほうが良いのでは?」

「教えられないということですか?」

「知らなければ、うっかり誰かにしゃべってしまうこともないでしょ?」

「ああ、なるほど。了解です」


 ごもっともな言い分に、なるほどとうなづいた。知らなければ、余計な嘘もつかなくてすむ。嘘をつくのが苦手な自分としては、願ったりかなったりだ。


「でも、さすが大手銀行の頭取さんですね。一般人とは待遇がぜんぜん違います。安達さんの存在を含めて、住んでいる世界が違うっていうか」

光栄こうえい出版さんにも、社長さんはいるでしょう?」

「でも、秘書室なんてありませんよ」


 社長の業務補佐をする役職があるにはあるが、社長付きなんとか長という肩書で、秘書なんてオシャレなものではない。


「秘書室の仕事は、頭取だけでなく、役員全員の業務サポートですからね。それなりの人数が必要なんですよ」

「頭取さんだけじゃないんですね」

「そのとおりです。簡単に言えば、役員専従の何でも屋です。仕事内容も、世間で思われているほど、スマートなものじゃないですよ」


 一番下の階層までおりると、車は通用口のすぐそばのスペースにとまった。


「安達さんは、秘書室勤務になって長いんですか?」

「どうしてです?」

「こういうことも任されているので、それなりにベテランなのかなと」


 「こういうこと」とは現在進行形のことだ。


「まあ、任せてもらえるほどには長いですかね」


 廊下のつきあたりにエレベーターがあった。それに乗り込むと、個室があるフロアのボタンを押す。


―― やっぱりスパイ映画みたい ――


 映画だと、隣ですました顔をして立っている安達さんも、秘書というのは仮の姿で実は特別捜査官とか特殊部隊の工作員とか、そういう役回りだ。そこまで考えて、思わずクスッと笑ってしまった。


「どうかしましたか?」

「あ、いえ。すみません、ちょっと思い出し笑いです」

「出版社さんなら、いろんな作家さんの面白いエピソードとか、ありそうですね」

「話せないことが多いんですけどね」

「なんとなくわかります」


 エレベーターが止まって扉があく。正面は看護師さん達の詰め所だ。カウンターに立っていた看護師さんは、安達さんの顔を見てうなづいた。


「こんにちは」

「面会にうかがいました」

「どうぞ」


 詰め所の前を通り、廊下の一番奥の部屋に向かう。病室のドアは開け放たれているのが普通だが、ここは特別室だからかドアは閉められていた。安達さんがノックをする。


「安達です。羽織屋さんをおつれしました」

「どうぞ~」


 中から奥様の声がした。病室に入ると、小此木さんはベッドではなく、見舞客が利用するソファに座っていた。テーブルにはパソコンが置かれている。最初に受け取った原稿は手書きだったが、気が変わったのだろうか。まさか仕事をするために持ち込んだとか?


「校正ができましたので、それをお持ちしました。どうですか? 順調に進んでいますか?」

「ここ一週間ほど書く気がしなくてね。昨日あたりから、やっとその気になったところだよ」


 小此木さんが笑いながら言った。つまり、薬の副作用の影響はそれなりにあるということだ。


「でしたら今日は、できた分だけをいただいて帰ります。あ、これ、差し入れです」

「ありがとう」


 チョコが入った紙袋を、奥様に渡す。


「食べすぎはいけませんけど、甘いものは脳が元気になるって言いますからね。執筆に疲れたらどうぞ。もちろん奥様も、召し上がってください」

「あら、チョコレートよ、あなた。良かったわね」

「このタイミングで良かったな」

「?」


 どういうことだろうと、首をかしげた。


「ここしばらく、薬のせいで味覚がおかしかったんだよ。飯は変な味になるし、甘みも感じられなくなるし」

「そうなんですか?」

「買ってきたチョコレートも苦みしか感じられなくて、ここしばらく大騒ぎだったのよ。昨日あたりから、やっとマシになってきたの」


 奥様がニコニコしながら付け加える。


「そうだったんですか? だったらこれ、大丈夫でしょうか?」

「あれ以上、ひどくなりようがないと思うがね。せっかくだし、いただこうか。今の私は、甘いものに飢えているんだ。玲子れいこ、お茶の用意を頼めるか?」

「せっかく皆さんが来てくれたんだから、四人でお茶にしましょうね。安達さんもそんなところに立ってないで、そこにお座りなさい」


 奥様に言われた安達さんが、おずおずと小此木さんの向かい側に座った。私はカバンを安達さんの横に置かせてもらい、奥様に手伝いを申し出る。


「お手伝いします」

「じゃあ、お湯のみと茶たくを出してくださる?」

「はい」


 お茶の準備を始める私達の後ろで、小此木さんと安達さんが話を始めた。


「では我々は、お茶の時間に入る前に仕事を片づけておこうか。安達君、メールで受け取った以外の連絡事項はあるかな?」

「はい、いくつか」


 安達さんは自分が持ってきたカバンの中から、分厚いシステム手帳を取り出した。さすが大手銀行頭取の秘書。立派なシステム手帳だ。そして二人が話し始めたことが、銀行内部のことや諸々の内輪じみた話だったので、耳にフタをした。


「主人たら原稿を書くだけでは飽き足らず、とうとう安達さんを呼んで、仕事まで再開しちゃったのよ」


 それを察した奥様が呆れたように笑う。


「まあ、それだけお元気だってことですから」

「投薬の副作用では、ずいぶんと泣きごとを言ってたのよ? 食べるだけが楽しみなのに、それすら奪うのかって。髪の毛が抜けたり浮腫むくんだりして、大変な思いをする人もいるのにね」

「泣きごとなんて言ってないぞ。あれは患者としての意見だ」

「はいはい、意見ね」


 奥様は相手に顔が見えないことをいいことに、舌をペロッと出してみせた。


「チョコレート、小さいのがたくさん入っているから、箱のまま出した方が良さそうね」

「ですね」


 お茶とチョコレートの箱をテーブルに置く。小此木さんと安達さんはまだ話をしていたが、小此木さんの注意がそっちに向いてしまい、話は中断してしまった。


「あ、すみません。早すぎましたか?」

「いえ。急ぎの件は伝えましたので、問題ありません」


 安達さんは笑いながら、カバンに手帳を片づける。


「いろんな種類があるんだね」


 小此木さんは、うれしそうに箱の中をのぞきこんだ。


「どんなものが好みかわからなかったので、詰め合わせにしました」

「それはそれは。どれもおいしそうだ」


 それぞれソファに落ち着くと、思い思いのチョコをつまむ。


「おいしいよ。どうやら味覚は完全に戻ったようだ」

「良かったです。……ところで、副作用の味覚障害、どんなものだったかお聞きしても良いですか?」

「ひどいものだったよ。苦みだけが前面に出てくる感じでね。チョコレートもカカオ500%みたいな味だったよ」

「500%ですか」


 もちろんそんなお菓子は存在しない。とにかくそれぐらい、苦みだけが突出して感じたということらしい。


「想像つきませんね」

「知らない方が幸せだよ、安達君。若いうちから健康には気をつけないといけないよ? うちの銀行、定期健診の助成もしてるから、ちゃんと利用するように」

「肝にめいじます」


 安達さんは真面目な顔をしてうなづいた。


「ところで羽織屋さん、原稿を読んでみた感想はどうかな? あんな感じで描き続けても良かったかい?」


 しばらくして、チョコレートに満足した小此木さんが口をひらいた。


「その件ですが、ちょっと表現が堅いのではないかと感じました。経済界の話がメインではないので、もう少し表現を柔らかくしても良いかなと」

「ふむ。たとえばどんな感じに?」

「まずは、漢字をひらがなに変更してはどうかという部分に、チェックを入れました」


 比較しやすいように、特に変更が多かったページを、変更前と変更後で並べてテーブルに置く。


「こんな感じになります。どうですか?」

「なるほど。普段から気にせず使っている単語も、ひらがなにしたほうが読みやすい文章になるね。どうだ、玲子?」


 小此木さんは奥様に原稿を見せた。


「そうね。私達の世代だと漢字を使いがちだけど、こっちのほうが読みやすいわ」

「もちろん、逆のパターンもあります。変更箇所は、いただいた原稿に赤丸をつけてありますので、それと合わせて確認をお願いします。書き手によっては、どうしてもこの部分は漢字が良いという、こだわりもありますので」

「承知した。なら、今日まで書けたものを渡しておくよ。最初よりずっと少ないけどね」

「治療もありますから、無理はしないでくださいね」


 受け取った原稿はやはり手書きだ。パソコンは、まさかまさかの仕事用だったらしい。

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